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天平時代前期の仏像2:薬師寺東院堂の聖観音像



(薬師寺東院堂の聖観音像)

薬師寺東院堂の聖観音像については造立の経緯に諸説あって定まらない。寺伝の一節に、孝徳天皇の后であった間人皇后が亡き夫のために作らせたとあるが、もしそうだとすれば白鳳時代盛期の作と言うことになる。しかし、この仏像には薬師三尊像の脇侍同様に唐の様式の影響も認められ、それらとあまり違わない時期に作られたとする説もある。そうだとすれば、平城遷都の直前に作られた可能性が高い。

この仏像は薬師三尊像の脇侍とよく比較される。まず、姿勢であるが、両脇侍が腰を軽くひねって動きを感じさせるのに対して、この像はほぼ直立して、しかもシンメトリカルな形になっており、静的な感じを与える。衣装については、脇侍のものは身体にフィットした感じを与えるのに対して、この像の場合には、裳裾の両側が左右に大きく開いており、その点、前時代との連続性を感じさせる。

顔については、両脇侍がふっくらとしてやわらかな表情をしているのに対して、この像の表情はやや硬い(その点で古風な)感じを与える。髪については、両脇侍が丁寧に櫛ったあとが見られるのに、この像はあっさりと仕上げている。また髻の飾りもこの像の方がシンプルである。すなわち、両脇侍が髻の三面に凝った飾りをつけているのに対して、この像は髻の左右両側に唐草模様文を施しているだけである。

以上の諸点からすると、この像は薬師三尊像よりも古風に近いという印象を受けるのであるが、しかし古風な趣を残しながらも、全体的な印象としては唐の様式の影響も感じさせるので、白鳳期には遡らないのではないかとの説が有力である。

なお、この像の髻前面には化仏を刺していたと思われる穴があいている。それがこの像が観音像であることの証拠になっている。なお、観音像といえば右手の方を上にし、左手を提げるのが通常の姿であるが、この像の場合にはそれが反対になっている。






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