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月岡芳年:作品と解説 |
月岡芳年(1839-1892)は、最後の浮世絵師と呼ばれる。明治維新は彼が三十歳のときのことであり、その頃に画家として独り立ちしていた芳年は明治二十五年に満五十三歳で死ぬまで日本の浮世絵界をリードしたのであるが、それは浮世絵史の最後の段階にあたっていた。浮世絵は芳年の死とともに長い歴史に幕を閉じたのであって、したがって芳年は最後の浮世絵師と呼ばれてしかるべき存在だったのである。 |
月岡芳年は天保十年に江戸新橋の御家人吉岡兵部の家に生まれ、すぐに父親の従兄弟である商人吉岡織三郎の養子となった。月岡姓は実父の叔父で画家の月岡雪齋から引き継いだと思われるが、画業の上でもあまり関係はなかったようである。 嘉永三年(1850)、満十一歳のときに当時の人気浮世絵師歌川国芳の門人となり、早くから才能を現わした。国芳は武者絵が得意で、似顔絵の豊国、名所絵の広重と並んで、歌川派の浮世絵の重鎮であった。芳年は国芳から武者絵の手ほどきを受け、その延長上に妖怪画とかいわゆる血みどろ絵といったものを手がけていった。 月岡芳年の画業は生涯の四つの時期に区分することができる。最初は習作の時期で、国芳の武者絵を手本にして、歴史上のさまざまな人物を迫力ある筆致で描いた。 第二はいわゆる血みどろ絵の時期で、慶応二年から明治明治二年までのほぼ五年間がこれにあたる。芳年と言えば血みどろ絵がすぐに思い浮かぶほどに、血みどろ絵の印象が強いのだが、彼がこうした絵を描いたのは、せいぜい五年間に過ぎなかったのである。 第三は明治六年以後の充実期で、歴史上の人物をモチーフにしたいわゆる歴史画のシリーズを次々と刊行し、名声が大いにあがった。 最後は、明治十八年以後死までの時期で、縦二枚続きの名作を始め、多くの力作を残している。 月岡芳年には鬱病の傾向があり、生涯に何度か精神的な失調を経験している。しかしそのたびに比較的短期に回復したのだったが、五十歳を過ぎて発症した精神失調のために、五十三歳という若さで死んだ。芳年にとっては、浮世絵がその存在意義を失いつつあった時期に死んだことにもなり、そこに運命のいたずらのようなものを感じることができる。 月岡芳年は死ぬまでエネルギッシュに描き続けた。その作品は膨大な数にのぼる。ここでは芳年の画業から満遍なくとりあげて、その魅力を堪能したいと思う。 文治元年平家の一門亡海中落入る図:月岡芳年 桃太郎豆蒔之図:月岡芳年 菊のおも影:月岡芳年 頼光四天王大江山鬼神退治之図:月岡芳年 正清三韓退治図:月岡芳年 小野川喜三郎(和漢百物語):月岡芳年 炎出見命(美勇水滸伝):月岡芳年 高木午之助(美勇水滸伝):月岡芳年 稲田九郎新助(英名二十八衆句):月岡芳年 遠城喜八郎(英名二十八衆句):月岡芳年 向傷与三蝙蝠安(東錦浮世稿談):月岡芳年 幡随院長兵衛(東錦浮世稿談):月岡芳年 鷺池平九郎(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 佐久間大学(魁大百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 堀井恒右衛門(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 会津黄門景勝(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 森力丸(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 秦桐若(魁題百撰相):月岡芳年の血みどろ絵 鬼若丸(和漢豪気術):月岡芳年の武者絵 西塔ノ鬼若丸(一魁随筆):月岡芳年 托塔天王晁蓋(一魁随筆):月岡芳年の錦絵 江水散花雪:月岡芳年の歴史画 城山隆盛最後一戦:月岡芳年の報道画 多田満仲(大日本名将鑑):月岡芳年の歴史画 天照皇大神(大日本史略図会):月岡芳年の歴史画 義経記五條橋之図:月岡芳年の武者絵 佐藤四郎兵衛忠信(皇国二十四功):月岡芳年 日本武尊 川上梟帥(芳年武者無類):月岡芳年 相模次郎平将門(芳年武者無類):月岡芳年の武者絵 弾正少弼上杉謙信入道輝虎(芳年武者無類):月岡芳年の武者絵 藤原保昌月下弄笛図:月岡芳年の歴史画 豊流閣両雄動:月岡芳年の縦二枚継絵 奥州安達がはらひとつ家の図:月岡芳年の縦二枚継絵 魯智深燗酔打壊五臺山金剛神図:月岡芳年の縦二枚継絵 袴垂保輔鬼童丸術競図:月岡芳年の縦二枚継絵 羅城門渡辺綱鬼腕斬之図:月岡芳年の縦二枚継絵 うるささう(風俗三十二相):月岡芳年の風俗画 かわゆらしさう(風俗三十二相):月岡芳年の風俗画 朧月夜熊坂(月百姿):月岡芳年 吼噦(月百姿):月岡芳年 玉兔 孫悟空(月百姿):月岡芳年 |
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