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桂離宮その一:日本の庭園




桂離宮は、複雑に入り組んだ形の大きな池を中心にして、池の周りや島の上に、雁行型に並んだ書院群や月見を兼ねた茶室をいくつも配置した池泉回遊式庭園であり、その規模は七万平方メートルに及ぶ。八条の宮智仁親王が元和元年(1615)に造営をはじめ、寛永元年(1624)頃には、古書院のほか庭園部分を含む一期工事が完成した。寛永六年に智仁親王が死んだ後は、一時荒廃したが、その子智忠親王が成人するや、荒廃した庭園を復興するとともに、寛文二年(1662)頃までに、中書院、新御殿、月波楼、松琴亭,賞花亭、笑意軒などを増築し、ほぼ今日の形に整えた。

このうち、新御殿と御幸道などは、後水尾院を迎えるために作られたものであるが、親王は院の行幸を迎えることなく、44歳の若さで亡くなった。その後、宮の跡を継いだ親王たちはいづれも早世し、そのため桂離宮は呪われた場所と言われるようになり、明治の初めについに十一代で宮家が断絶。皇室財産に移管されて桂離宮と称されるようになった。

創建以来一度も火災にあっていないので、数ある建物群はいずれも、創建当時の姿をとどめている。

昭和のはじめにここをおとずれた建築家のブルーノ・タウトが、「涙が出るほど美しい」と絶賛し、また「目で思惟する」眺めだといって、その繊細な美しさを称えた。日本の庭園美を代表するものと言える。皇室財産であることから、一般公開はしていない。事前に宮内庁の許可を得て参観することができる。

上の写真は御幸門。後水尾院を迎えるために特別に作られた門である。茅葺の切妻屋根を自然木の皮付き丸太で支えている。これは敷地の内側から見たところ。



御幸門を入ってすぐ、散策路の入口にあたるところに、外腰掛と呼ばれる建物がある。その前に蘇鉄が何本も植えられている。蘇鉄は徳川時代の初めに日本に入ってきた植物で、珍しさから大いにもてはやされた。二条城の二の丸庭園にも蘇鉄が植えられている。



外腰掛の先に、洲浜と差ばれる砂洲のようなものがある。これはその砂洲越しの眺め。向こうに見えるのは松琴亭。



砂洲の先にある石組み、その形から天の橋立と呼ばれている。



松琴亭から書院方向を眺めたところ。



松琴亭内部。青と白の格子模様は小堀遠州が好んだものだが、遠州好みの意匠は八窓の囲いなどにもある。そんなことからこの離宮の造営に遠州のかかわりを見る見方もある。







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