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修学院離宮その一:日本の庭園




修学院離宮は、後水尾院の指示によって明暦元年(1655)から万治二年(1659)にかけて造営された。上・中・下三つの離宮から構成され、それらを田んぼの畦道をそのまま利用した苑路によってつないでいる。離宮周辺の緑地帯とあわせると、総面積54万平方メートルに及ぶ広大な庭園である。

これら三つの離宮のうち、上と下の離宮は院自らの意思によって造営され、中の離宮は同時期に皇女朱宮の御所として造営された。院の死後、その菩提を弔う為に林丘寺という寺院になっていたが、明治以降離宮に加えられて、今日のような形になった。

修学院離宮は、よく桂離宮と対比される。昭和の初期に桂離宮を絶賛したブルーノ・タウトは、桂離宮について「目は思惟する」と言ったが、修学院離宮については「目は見る」と言って、桂離宮の繊細さに対比して修学院離宮の雄大さを称えた。

桂離宮を作った八条の宮智仁親王は後水尾院の叔父である。その智仁親王が、一度は秀吉の養子にたてられながら、その後秀吉に子ができたことで厄介払いになったという屈辱を味わったとすれば、後水尾院は、愛する妻子を徳川によって始末され、家康の孫娘を無理やり正妻に押し付けられるなど、大いにプライドを傷つけられた。そんなわけで、この二人には、武家の権力に対する屈折した思いがあったとされるが、その思いが桂離宮には繊細さとして現われ、修学院離宮には雄大さとしてあらわれたわけであろう。

三つの庭園のうち下の離宮は下の御茶屋とも呼ばれ、寿月観という茶屋とその南側の小さな池を中心に構成されている。

中の離宮は中の御茶屋とも呼ばれ、朱の宮の御所である楽只軒とその南側の小さな池を中心に構成されている。

上の離宮は上の御茶屋とも呼ばれ、数十メートルもの高さに及ぶ丘の上に巨大な池を掘り、臨雲亭・窮邃亭の二つの茶屋と、池の周りをめぐる散策路からなる雄大な池泉回遊式庭園である。

上の写真は、総門から下の離宮に通じる御幸門。この門を潜れば、下の離宮の庭園と寿月観が現れる。



これは寿月観。建物は文政年間に復旧されたものだが、一の間にかかる「寿月観」の扁額は後水尾院の真筆とされる。柿葺入母屋数奇屋風作りの建物である。



寿月観南側の池。



寿月観をとりまく散策路沿いの眺め。



中の離宮の中心は、朱の宮の御所であった楽只軒という建物と、それに接する客殿。これは客殿のほうを眺めたところ。この客殿は女院御所から移築されたといわれ、内部にはユニークな違い棚や、網の中に閉じ込められた鯉の絵の扉などがある。この閉じ込められた鯉は、徳川によって迫害されている後水尾院をイメージしたものだと解釈されている。



中の離宮の庭。



中の離宮と上の離宮を結ぶ苑路。この道はもともと田の畦道だったが、両側に松の木を植えて、風情を演出している。






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