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京都観庭記1:二条城・神泉苑



(二条城二の丸庭園)

親しい友人たちと京都へ三月一日から二伯三日の旅行をした。テーマは名園巡り。歴史的に価値の高い庭園を見て歩こうというものだ。メンバーはY夫妻、O、Mの諸子に筆者を加えて五人だ。東京駅七時五十六分発のこだま号に乗り込み、のんびりビールを飲みながら旅情を楽しむ。これまで京都へは何回も旅をしたことがあるが、このようにテーマを決めて旅するのは初めてのことだ。テーマを決めてあれば、漫然と旅するよりも、目の付け所もおのずから違ったものになり、充実した旅になるだろうと思ったのだったが、果して思惑通りの成果が得られるか。

列車は十一半過ぎに京都駅に着いた。まず、荷物を宿泊先に預けようということになり、駅前からタクシーに分乗して東山高台寺の一角にある「よ志のや」という料理屋旅館に赴く。ミシュランの旅館部門に登録されているというものだ。そこに荷物を預けて祇園方面に向かって歩き、建仁寺に立ち寄りなどしつつ、花見小路を散策し、とある料理屋に入って湯豆腐を注文した。ところがこれが、価貴くして味美ならず、なんだか損をした気分にさせられた。花見小路といえば祇園の中心、そこならばどの料理屋もさぞうまいものを食わせるだろうと思ったのが間違いのもと、と観念した次第だった。

祇園四条駅から地下鉄に乗り、三条駅で乗り換えて、二条城前駅で下車。庭園巡りの手始めに二条城庭園を見ることとする。堀川通りに面した東大手門から入ったが、門や石垣の構築物の印象が江戸城のそれによく似ている。つまり城郭なのだ。城郭都市ならぬ京都にはちょっとミスマッチな感じをさせられる。これが京に現れた時には、京の人々はさぞ違和感を持ったに違いない。

二条城は、いうまでもなく徳川家の居城として建てられたものである。本丸と二の丸からなるが、歴史的に重要なのは二の丸の方だ。というのも、1626年に後水尾院を迎えた際に接待所として使われたのが二の丸であり、その際に二の丸庭園が造営されたからである。これを造営したのは、徳川時代初期の代表的な庭師小堀遠州である。雁行形に配置された書院造り建築群とあいまって、書院造り系庭園の代表作という評価が高い。

後水尾院の二条城行幸は、徳川氏の権威を天下に示したものとして、歴史上に名高い。徳川氏は、天皇をわざわざ自分の居城に呼び出したばかりではない、天皇の内裏であった場所に、自らの居城を作ったのである。というのも、二条城はかつて内裏であった神泉苑の敷地を取り込むような形に作られているからである。二の丸庭園にある池は、神泉苑の池の一部であったものだ。

二条城の外壁配置は、街路の南北軸から三度ずれている。これは小堀遠州が、測量する際に磁石を用いたからだといわれている。平安京の街路配置は北極星を基準にしているのに対して、遠州は磁石をもとにしたわけだが、その結果、街路との間で三度のずれができたということらしい。

我々は、まず雁行する書院造り建築群の内部を巡覧し、その後二の丸庭園を散策した。庭園の一角にソテツが植えられているが、これは造営当初からこの場所にあるのだそうだ。もっとも、いまあるものは造営当時のものではなく、恐らく幾度も代替わりしたであろうと思われる。


(神泉苑:赤い橋は法成橋)

二条城を出た後、隣接する神泉苑を訪ねた。これは上述したように、もと内裏があったところの一部である。京都の地は、太古には巨大な湖であったが、その名残が池泉として残っていた。朝廷はそれを神泉と名づけ、それをとり囲むようにして内裏の施設を造営した。それがそもそもの神泉苑の姿であった。だが、徳川家によって大部分を接収されてしまった。その後に、わずかに残った部分が今日神泉苑として伝わっているわけである。

今日の神泉苑は、小さな池泉を囲んでささやかな空間が広がっているのみである。我々はその一角に立って、悠久の歴史に思いを馳せた次第であった。そのうち雨が激しく降ってきたので、大急ぎで地下鉄駅に戻り、次の訪問先青蓮院のある東山へと向かった。







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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2014
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