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京都観庭記3:銀閣寺・詩仙堂



(銀閣寺観音殿と庭園)

二日目の朝食がなかなかのものだった。懐石風の手の込んだ料理で、量もたっぷりだ。これを漫然と食うわけにもいくまいというわけで、朝からビールを飲んだ次第だった。

朝食後タクシーを雇って銀閣寺に向かう。参道を通って境内に入ると、いきなり白い砂で固められた築山が見えた。その周辺にも白い砂が敷き詰められている。この寺名物の銀沙灘を再現したものらしい。以前来た時には、これを見た記憶がないから、最近しつらえたのかもしれない。砂自体は至極新しい感じがする。

銀沙灘というのは、月の光を反射させることを狙ったものだと聞いたことがある。こんなもので果してそんなことができるのか、疑問にも思えるが、しかし夜中に月の光だけが輝いている光景を想像すれば、白い砂が月光に照らされて銀色に光る場面が眼に浮かぶような気がする。何事も、想像力次第ということか。

銀閣寺は慈照寺ともいう。足利義政の法号慈照にちなんだ名で、義政の存命中は東山御殿と呼ばれた。義政は暗君で、政治を顧みず、応仁の乱を起こされてしまったわけだが、晩年はわずかなエネルギーのすべてを傾けて東山御殿の造営につとめたと言われている。建築材料や庭石を求めて、金閣寺始め方々の神社仏閣から略奪してきた。それ故、義政が死ぬと、それらを取り戻された。それだけが原因ではあるまいが、義政の死後急速に衰退してしまった。今日見られる寺容は、徳川時代初期に再建されたものである。銀閣寺と呼ばれるようになったのも、徳川時代以降のことである。

義政は造園の知識も持っていたようで、この寺の庭園はいちおう彼が作ったということになっている。もともとは、本殿である会所を中心にしてその前面に池を配し、池のほとりに観音殿や東求堂を配していた。それ故、寝殿造りをベースにしながら、そこに義政の趣味を加えた作りだといえなくもない。

観音殿は、二階の一部分が一階からはみ出ている。はみ出た部分は細い柱一本で支えている。屋根も本体も軽いからこそこんな技が可能なのだろう。ちなみに、壁には障子が嵌められていて、それがあたかも紙でできた壁のように見える。紙の障子は縁側で外界と隔てられているのが普通で、このように直接外界に接しているのは珍しい。これでは大雨が降るたびに、紙が破れ、したがって壁が崩壊したのと同じような状態になってしまう。石の壁の文化になじんだ西洋人の眼には、さぞ異様に映るだろう。


(詩仙堂入口)

銀閣寺を出たあと、バスで詩仙堂方面にむかった。一乗寺下り松という停留所で下りて詩仙堂に向かう途中、脇道にそれて、とある漬物屋に立ち寄った。Yの細君が、ここの雲母漬けを是非求めたいというのだ。小茄子を辛子漬けにしたもので、試食してみるとなかなかうまい。筆者も一つ買い求めた次第だ。

詩仙堂は、深い山裾のなかにひっそりとたたずんでいた。以前来た時には、三十六歌仙の絵が飾ってある日本間から庭を瞥見したものだったが、今回は庭に下りて散策してみた。庭から詩仙堂の建物を眺め上げると、屋根の上に望楼のようなものが見える。言い伝えによると、これは都の様子を監視するための展望施設ということになっている。

詩仙堂は、石川丈山が隠居所として作ったものだが、本来の目的は、ここを拠点に朝廷をスパイすることだったとする説がまことしやかに伝わっている。隣には修学院離宮があり、御水尾院がしょっちゅうお出ましになる。その院の様子なども、この望楼から一目瞭然だったのではないかというわけである。丈山は徳川家譜代の家臣であり、何かと謎に満ちたエピソードに包まれており、スパイだったとしても少しもおかしくない。

庭園の話に戻ると、ここの庭園は、規模は小さいながら、流水と池を巧みに配置し、しかも高低差のある敷地を活用して、変化に富んだ眺めを演出している。なかなかの名園だ。






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