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京都観庭記6:京都御所



(京都御所、紫宸殿)

三日目の朝もビールを飲みつつ食事をした。朝から極楽気分である。食後手荷物を駅へのデリバリー・サービスに託し、タクシーを雇って京都御所に向かった。今回の旅行の最大の目玉である。実は、庭園巡りの計画の中に、できれば桂離宮や修学院離宮なども含めたかったのだが、同時間帯に受け入れ可能な人員が四人に制限されているために、我々のように五人のメンバーでは、一時に入れないことがわかった。京都御所は百名まで受け入れ可能なので、比較的容易にアクセスすることができるのである。

中立売門の内側で下りて、手続き場所たる清所門に向かう。ここでチェックを受けて、門内の休憩所にいくと、既に数十名の人々が待機していた。やがて女性の係官があらわれて、我々を誘導かつ案内してくれることとなった。身振りも声もてきぱきとした、好感のもてる女性である。

まず宜秋門の前にある諸大夫の間というところに立ち寄った。ここは、殿上人や大名などが参上したさいに、控えの間として使われるところだ。三つの部屋からなっていて、それぞれ身分に応じて案内されることとなっている。部屋は作り方や装飾など様々な点で差別化されている。身分の高い者は荘厳な趣の部屋に案内され、身分が低くなるに従い、次第に荘厳さが軽減される仕組みになっているわけである。これは、徳川時代におけるような身分社会においては不自然なことではなかったといえるが、明治以降も様々な身分に応じて、通される部屋が差別化されていたようだ。

こういうことを聞かされると、日本という国は、天皇を頂点にした権威的な身分社会であり、臣民たちは差別化されたピラミッドの中でなるべく天皇に近い位置を確保することで、自分自身を偉そうに見せようとしていたことが、あらためてわかる。明治以降の藩閥政府の連中も、そうしたピラミッドの中でなるべく天皇に近い位置を確保することで、天皇の権威をタテに威張りかえっていたものと見える。彼らが案出した爵位制度などは、その目的のために作り出されたものであろう。

天皇のために明治以降に作られた車寄せを過ぎ、承明門の柱の間から紫宸殿を見る。紫宸殿の建物の前には、右近の橘、左近の桜が植えられているが、これは三千院門跡にもあった。皇室の権威の象徴のようなものらしい。紫宸殿の内部には天皇が君臨する巨大な台座があり、これは平成天皇の即位式にも使われたそうだ。あまりにも巨大すぎるので、そのまま持ち運ぶことが出来ない、それ故解体して搬送したそうだ。

また、紫宸殿の屋根について、詳しい説明があった。これは桧皮葺といって、檜の皮を剥いでそれを板状にしたものを、何百層も積み重ねて作るのだそうである。見た目には重厚に見えるが、非常に軽いので、耐震という点では非常に具合が良い。しかし火には弱く、市中の花火が飛んできただけでもメラメラと燃えてしまうのだそうだ。

そうこうするうち、雨が激しく降り出した。すると、係官の女性が、柱の影から蝙蝠傘を沢山出して来て、皆さんに配ってくれた。なかなか親切が行き届いている。


(京都御所内の御池庭)

次いで、紫宸殿を回り込んで清涼殿を見物し、さらに池のある庭へと踏み込んだ。この庭に面したいくつかの建物は、天皇の私的な用途のために使われるそうで、小御所とか学問所、蹴鞠のための空間などが並んでいる。天皇が日常坐臥することの最も多いのは、御常御殿というところだそうである。

庭園もなかなか見どころがある。我々の今回の旅のテーマにまさしく相応しいたたずまいだった。

なお、京都御所は度々火災のために消失を繰り返し、現存するものは、幕末の安政二年(1855)に再建されたものをベースにしているそうである。






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