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修学院離宮、曼殊院:京都観庭記続編その三



(修学院離宮 下の離宮)

二月廿三日(火)陰、時に晴る。この日は修学院離宮より九時開始の見物案内許可を得たれば、朝食後七時半頃ホテルを出で、京都駅より地下鉄烏丸線に乗って終点の国際会館前にて降り、そこよりタクシーを雇ひて離宮に至る。離宮へは八時半頃に到着す。門前に揃ひの半被を着たる集団あり。襟元に熱田神宮豊年講とあり。その数三十名ほど。いづれも老人ばかりなり。この人々とともに案内せらるるのやと思ひしや、彼等は離宮の係員に先導されて別途中に入りたり。門前に立ち止まりて開門を持ちをりし我々ほかの者は、これらの人々とは別に、簡易建物のなかに案内せられ、そこにて離宮紹介のビデオを見せられて後、離宮の係員に案内せられ離宮内を巡覧して歩く。

案内に先立って、修学院離宮の概要説明あり。この離宮は徳川時代の初期に後水尾上皇の手によって造営せらる。上皇は造園に明るく、自ら庭園を設計すといふ。比叡山の麓の斜面を有効に使ひ、周囲の山々を借景として、上、中、下の三つの区画にわけて離宮群を配置す。それらを結ぶ道は田んぼの畦道をそのまま利用し、中の離宮と上の離宮を結ぶ畦道には両側に松の並木を配したり。参観人は、下の離宮より始めて、中の離宮、ついで上の離宮へと進むなり。上の離宮は斜面の上部に展開しをれば、膝に不安のある身としては、歩くにやや負担を感ず。

同行のものは十数名なり。係員に先導されてまず下の離宮から散策す。門をくぐって中に入るに、先ほどの講の人々、それぞれ箒やら鎌を持って庭園内の雑草を除く作業をなしてあり。係員に聞くに、これらの人々は恒例の勤労奉仕のためにやってくるといふ。他にも全国から同趣旨の人々季節ごとにやってきては勤労奉仕をなすといふ。勤労奉仕といひても、庭園はもとより手入れゆきとどき、いまさら人の手を要するとも思へず。勤労奉仕に名を借りて、皇室との親近感を求むると見えたり。

下の離宮は、寿月観なる茶屋を中心に造営せられてあり。寿月観なる名称は月を見るにちなむ。小さな池を掘り、その池に反映せる月を見る趣向も取り入れてあり。

下の離宮を出て、田圃の畦道を通って中の離宮に向かう。この畦道は閉鎖せられてあらず。外部の農地と連続す。とはいひても、一般人の立ち入りは許さず、要所に立ち入り禁止の表示をなすといふ。これらの農地は契約農家をして工作せしむる由なり。かくすることで、周囲の景観を自然豊かに保つ工夫なり。


(中の離宮)

中の離宮は、楽只軒なる茶屋を中心に造営せられてあり。客殿を併設してあり。この客殿は御所にありしものを移築せるものといふ。

中の離宮を出るときは、入りし時と同じ門をくぐる。この門、入る時に係員が開け放しにしをりしはずが閉ざされてあり。恐らく、別の係員が閉ざせるなるべし。畦道の端に架けられたる進入禁止用の竹の柵も、同様にして別の係員が解放の後始末をしをるやうなり。


(上の離宮)

松並木の畦道を歩みて上の離宮に至る。門をくぐりて急な石段を登り、上りきりたる先に隣雲亭なる茶屋あり。そこより眼下に大きな池を見下ろす。この池を浴龍池といふは、池の中に横たはる島の姿が上から見下ろすに龍の横たはるやうに見えることに由来すといふ。

また池越しに東山やら西山を遠望す。ここよりは比叡山の山影を明確に見ることを得るほか、北山より西山へとつながるゆったりとした尾根線が見ゆるなり。

かくて園内を歩むこと一時間二十分ほどなり。案内役たりし宮内庁の係員は、流暢なる都言葉を用ゐて懇切に説明にあたりたり。


(曼殊院)

修学院離宮を出でて後、山里の道を二十分ほど歩みて曼殊院に至る。曼殊院は奈良時代の創建になる古刹にして、徳川時代以降は門跡寺院となる。現存の庭園は徳川時代に作られし枯山水なり。白砂を池に見立て、その中に鶴・亀二つの島を配し、また背景の築山は深山幽谷の姿をあらはす。こじんまりながら見所多き庭なり。

あたかも秘仏の不動明王像公開せられてあり。筋骨隆々たる容姿はなかなかの迫力を感ぜしむ。青蓮院の青不動と並んで不動明王の画像の逸物として知らるる黄不動については複製を展示してあり。







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