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浄瑠璃寺、興福寺:奈良古寺めぐり(六)



(浄瑠璃寺本堂)

三月十二日(木)半陰半晴。朝餉をなし、チェックアウトを済ませし後、近鉄奈良駅まで歩く。しかして駅構内のコインロッカーに荷物を預け、浄瑠璃寺行きのバスに乗る。バスは長閑な田園地帯を走り抜け、三十分ほどして浄瑠璃寺に着きぬ。

浄瑠璃寺は、宇治の平等院と共に平安時代後期の姿をそのまま伝ふる浄土寺院なり。池に面して本堂を配し、その対岸に三重塔を配す。本堂内には名高き九体阿弥陀群像坐し並びてあり。すなはち丈六の中尊を挟んで左右にやや小さめの阿弥陀仏八体並び坐せり。それぞれの仏の背後には、両側を柱に挟まれたる壁立ち上り、前面にはそれに相応する形に障子の枠組配されてあり。すなはち、この本堂は、九体の仏の位置に応じて設計せられをるなり。それ故、この堂宇は九対の仏を収むるための厨子として作られしといへるなり。今はかく、堂内にて仏に参るなれど、もともとは、唐招提寺同様、外から拝むやうに作られをるなり。

中尊の光背には無数の仏彫られてあり。阿弥陀来迎の際の従者なるべし。九体の仏の外には、不動明王と二童子像、及び四天王のうち増長天と持国天の像安置せられてあり。これらは後世持ち込まれしなりといふ。

浄瑠璃寺の近傍には岩船寺あり。距離にして三キロたらず、バスも走りをれど、時間の都合を考へて赴かず。往路と同じバスに乗りて近鉄奈良駅に戻り、興福寺を訪ふ。折から中金堂の再建工事施されてあり。平成三十年に落慶すべしといふ。これが落慶すれば、興福寺の伽藍群は、西金堂を覗き、ほぼ盛時の面影を回復すべしとなり。


(興福寺東金堂と五重塔)

まづ、東金堂の諸仏を見る。本尊は薬師三尊なり。薬師如来の光背には無数の天女像彫られてあり。両脇侍は薬師側の腕を曲げ、聊か腰を内側にひねりてあり。三尊を囲んで、四天王、十二神将、文殊菩薩、維摩居士の諸像あり。ここの四天王は、広目天まで槍を持つなり。また、十二神将の表情は、新法華寺のそれに劣らず愛嬌あり。文殊菩薩と維摩居士は定慶の作なる由。うち文殊菩薩像は、興福寺の学問僧の心の拠り所として、大いに尊崇せられたる由なり。

ついで国宝館を訪ふ。ここは、西金堂など消滅せる堂宇の像を中心に安置するなり。説明にいはく、西金堂は明治七年に例の廃仏毀釈の煽りを受けて毀損せられしが、幸いに本尊諸仏は破壊を逃れ、ここに安置せられをるといふ。これを聞くにつけても、廃仏毀釈運動のすさまじさを思ひ知らさるるなり。これは、国学者など国粋主義勢力による文化破壊運動にして、その愚かなること、タリバンの原理主義的蛮挙に劣らず。日本版原理主義の妄動なりしといひつべし。何故かかる非合理主義が明治初期の日本を席巻せるか、その詳細な事情はいまだ十分に解明せられざるなり。

圧巻はいふまでもなく千手観音像と阿修羅など八部衆の像なり。ここの千手観音は、手の数に不足有るやうにて、子どもにも数へらるるべし。

興福寺の境内にはあまたの鹿群歩き、外国人の観光客を相手に鹿せんべいをねだりてあり。小生思ふには、これらの鹿は何を食って生きてをるのかと。自然の野草のみにては彼らの胃袋を満たすに足らざるべし。かといって鹿せんべいに専ら頼ることも出来ざるべし。







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