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縄文土器1:縄文早期、前期



(貝殻文沈線文系土器、東北縄文早期)

日本の歴史上最初の美術作品と称されるものは縄文時代の土器と土偶ということになっている。縄文土器がまず現れ、ついで土偶が現れた。土器の方はもともと美術品として作られたわけではなく、生活上の必要に迫られて作られたのであろうが、その制作にあたっておのずから、日常の用途に応じた目的と並んで、形や模様といった遊びの要素が付け加わった。その遊びの要素が、縄文土器を日本史上最初の美術品にせしめたのだと考えることが出来る。土偶の方は、土器におけるような日常生活上の用途があったとは考えがたいから、それを超えた要素、たとえば宗教的・儀礼的な要因があったと考えることが出来る。それ故、土器に比べると、土偶の類の美術的な性格はいっそう強まることとなる。

考古学者の間では、縄文時代を、早期、前期、中期、後期、晩期の五つに区分するのが普通である。そして早期に先駆けて、旧石器時代からの移行期としての草創期を位置付ける。だから普通、縄文早期から縄文時代が始まり、それ以前は草創期だったということになるが、いつから早期が始まり、いつから草創期が始まるかについては意見が分かれているようだ。もっとも有力なのは、紀元前1万年前に縄文早期が始まり、草創期はそれよりも5千年ほどさかのぼるのではないかとする見方だ。逆に縄文時代の終わりについては、弥生時代の始まりをいつとするかということと連動している。普通は紀元前200年頃が弥生時代の始まりだとされるが、それ以前より始まったとする見方もある。また、弥生文化が始まったからといって、縄文的な文化が一挙になくなったわけではなく、多くの地域ではかなり長い間この二つの文化が混交していたほか、東北や北海道では、縄文文化がかなり後まで残り続けていたのではないか、とも見られている。

縄文土器といえば、縄目の文様がすぐに思い浮かぶが、これが一般化するのは縄文前期からのことで、縄文早期やそれ以前の草創期にはほとんどない。また一口に縄文文様といっても、地域や時代によってかなりバラエティに富んでいて、これらを同じひとつの範疇でくくるのがもどかしいほどだ。

それでもおおまかな共通点がある。ひとつはそれらの土器の用途が煮炊きすることであったということだ。なかにはどんぐりの保存などに用いられることもあったと考えられるが、それは副次的な用途で、基本はあくまでも煮炊きすることだった、と考古学者は考えている。そこは弥生時代の土器とは異なる。弥生時代の土器には煮炊きの他に保存や食事の道具としての用途があり、それに応じて、さまざまな名称が付されているが、縄文土器の場合には「鉢」という名称のみが使われる。弥生時代にもこの鉢とよく似た形をしたものに「甕」と呼ばれるものがあるが、甕は保存を目的としているので、縄文土器には使わないといった具合だ。

用途が煮炊き用の鉢だということから、二つ目の共通点として、上部が広く下部が狭い筒型の形状があげられる。最初に現れた縄文土器の形状は、基本的には尖底広口の筒形を呈していたが、この形態がその後の縄文土器の基本形となった。底が尖っているのは地面に埋めやすくするためで、埋めた土器の周りで火を起こして、煮炊きしたのだと考えられている。

上の写真の土器は貝殻文沈線文系土器といって、東北地方縄文早期のものである。形が典型的な尖底広口になっている。模様は貝殻のヘリでつくった模様とへら状の道具で作った沈線とを混在させたものである。このタイプは関東以北で主流となったものである。


(押型文系土器、西日本・縄文早期)

一方縄文早期の西日本では、この写真のような押型文系土器がさかんに作られた。押型文とは硬いものを押し付けてつくる模様のことである。このほかに、普通の縄よりも細い撚糸を用いて文様をつけた撚糸文系土器と呼ばれるものが主に東日本で作られた。このように、縄文時代の早い時期から、土器には地域差があったわけである。


(羽状縄文系土器、関東・縄文前期)

縄文前期になると、縄目模様の土器があらわれる。これは羽状縄文系土器といって、広口の部分が羽根のように伸び広がっている一方で、腹の部分には縄目の文様がびっしりとつけられている。また、底の部分が尖ってなくて、地面に定着するようになっている。これ以降の土器は、このような定着型のものが主流になっていく。






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