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仏教の渡来と飛鳥時代の寺院建築:日本の美術


仏教の渡来が日本にとって持った意義はまことに巨大であった。そのインパクトの大きさは明治維新に匹敵するといえば理解しやすいだろう。明治維新を契機にして、日本が西洋文化を取り入れ、急速に近代化、国際化を図ったのと同じように、仏教の伝来は古代日本社会のあらゆる部分に甚大な影響を与え、日本を極東の孤立した島国から、東アジアの国際社会における一員へと発展させていった。その過程で、仏教文化が広く浸透し、それが日本古来の文化と融合しながら、独自の日本文化を作り上げていく。

仏教の伝来は一時にしてなったものではない。公式記録(日本書紀)では、欽明天皇七年(538)に百済の聖明王から我が国に仏像・経倫などが伝えられたのが始まりということになっているが、実際には四世紀中葉から少しずつ伝来していたようである。四世紀中葉には、日本は朝鮮半島南部に一種の植民地として任那を保持しており、朝鮮半島の諸国とは色々な関係があった。そこでそれらの国々から様々な形で仏教が伝えられたことは十分に考えられる。

百済王による仏教使節の派遣には、当時の朝鮮半島の情勢が関わっていたと思われる。当時の朝鮮半島は三国時代であり、北部に高句麗、南西部に百済、南東部に新羅が割拠していた。任那は百済と新羅に囲まれていたかたちだが、日本では百済と同盟を結ぶことで、任那の安全保障を図ろうとした。百済王による使節派遣はだから、両国の友好関係を強化するための儀式だった側面がある。

こうして次第に伝来して来る仏教に対して、国内の支配層の態度は分裂していた。蘇我氏や大伴氏は百済との同盟を主張し仏教の受容に積極的だったのに対して、物部氏や中臣氏は新羅との関係を重視して廃仏の立場をとった。その背後には両勢力の権力闘争があったものと思われるが、その権力闘争に蘇我氏とこれを支持した聖徳太子が勝利し、推古天皇・聖徳太子・蘇我馬子のラインが権力を掌握すると、仏教の受容は決定的なものとなった。

聖徳太子は遣隋使を送るなど日本の国際化に努力する一方、憲法十七条を定めて国内の統治機構を整備した。憲法の第二条には、「其不帰三宝、何以直枉(仏教に帰依せずして、どうして正しい行いができるだろうか)」と記しているが、それはすべての判断基準を仏教に求めようとするもので、聖徳太子がいかに仏教を重んじていたかがわかるところである。

仏教の受容とともに仏教寺院の建設も始まった。最初の仏教寺院は蘇我馬子が飛鳥に作った法興寺(飛鳥寺)である。日本書紀によれば、着工は592(崇峻五)年、完成は596(推古四)年である。着工に先立って百済から大勢の工人が呼び寄せられており、彼らの主導によって作られたと思われる。この寺は、1,196(建久七)年に焼失したが、発掘調査によって伽藍配置の状況が明らかになっている。塔を囲んで三方に金堂を配置し、それらを回廊で囲む。さらに回廊の外(北側)に隣接して講堂を配置するというものである。正面から見ると完全な左右対称になる。これは高句麗の清岩里廃寺にも見られるところから、高句麗の様式を採用したのだろうと推測される。

法興寺に続いて浪速の四天王寺と斑鳩の法隆寺が建てられた。正確な造営年次はどちらもわかっていないが、四天王寺はその後火災と再建を繰り返し、現在は原形をとどめていない。しかし発掘調査によって創建時の伽藍配置が明らかになっている。中門、塔、金堂、講堂を一直線上に並べ、中門と講堂とを回廊で結び、そのなかに塔と金堂を収めるというもので、これも正面から見ると完全な左右対称である。

法隆寺は聖徳太子の死後間もなく作られたようだが、670(天智九)年に焼失し、その後30年以内に再建された。この再建された法隆寺は現存する木造建築物としては世界最古である。発掘調査によると原法隆寺は四天王寺と同じ伽藍配置だった。現存のものは、それとは大分異なっている。

以上三つの寺は日本の仏教寺院史の最初期を飾る大寺院であるが、このほかにも多くの寺院が相次いで作られ、推古朝の末年(624)には、仏寺42、僧尼1385人を数えるに至った






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