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天平時代の寺院建築



(薬師寺東塔)

平城京への遷都直後には、飛鳥や藤原京にあった大寺院が次々と移転してきた。四大官寺のうち、飛鳥寺は移転して元興寺となり、大官大寺は大安寺となり、薬師寺は名を変えずに移転した。また藤原氏の氏寺であった雁坂寺は移転して興福寺となった。これらに遷都前からあった寺を加えると、遷都間もない平城京にはかなりな数の寺があったことになる。続日本紀養老四(720)年の記述には、藤原不比等が病になったため,京内の四十八寺に命じて薬師経を読ませたとあるから、実際にはそれ以上の寺があったと思われる。

遷都後新たに作られた寺としては、光明皇后が作った法華寺や、鑑真和尚の唐招提寺、総国分寺として作られた東大寺、そして西大寺などがある。こうして平城京は大寺院が伽藍を並べる仏教都市としての風貌を呈し、華麗な仏教美術の舞台となったのである。

天平時代に作られた寺院建築のうち、今日現存するものは、薬師寺東塔、唐招提寺金堂、東大寺法華堂、同転害門、当麻寺東塔などである。

薬師寺は、平城遷都直後に飛鳥から移転してきたとされるが、寺院の建築物は新築されたと考えられる。東塔は天平2(730)年に完成したと、扶桑略記に記録されている。相輪を含めた高さ約34メートルで、一見六重のように見えるが、実は三重で、それぞれの層に裳をつけてある。これは薬師寺に特有の様式で、塔のほか金堂や講堂にもそれぞれ裳を施していた。


(唐招提寺金堂)

唐招提寺は渡来僧鑑真によって天平宝字三(759)年に創建された寺院であるが、堂塔の建築はそれより遅れたようである。そのなかで唐招提寺金堂は天平時代に建てられた金堂としては唯一現存するものである。唐招提寺ではこのほか、講堂、校倉二棟も天平時代の建築物であり、この時代の建築物研究の中心となっている。

桁行七間(約28メートル)、梁行四間(約14メートル)で、前面の扉や窓は前から一間後退してしつらえられており、したがって前面が吹きさらしになっているのが特徴である。屋根は寄棟造りで、両端に鴟尾を載せている。


(東大寺法華堂)

東大寺は前身の金鐘寺を利用して造営された経緯があるが、法華堂はその金鐘寺の堂宇の一つだったものである。正面が五間、奥行きが八間と、奥行きの深い建て方になっているが、そのうち後方の四間が仏像を安置する正堂、前面の二間が礼堂になっており、中間の二間はつなぎの空間である。礼堂は後世になって付加された部分で、天平時代におけるもともとの姿は正堂のみからなっていた。






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