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正倉院宝物:数々の国宝を解説




正倉とは、もともとは官倉をさす一般的な名称であり、上代には中央の大蔵省を始め地方官庁の倉庫、果ては東大寺などの諸大寺にも置かれていたが、他のものはことごとく滅び東大寺のもののみが残った。そこで正倉といえば東大寺のものを指すようになった。鎌倉時代にはすでに、正倉院という言い方が一般化していたようである。

正倉院の建築は、ヒノキ造りで、屋根は寄棟造りの瓦葺、南北に長く東向きに建てられている。間口は33メートル、奥行きは9.4メートル、高さは14メートル、床下2.7メートルの高床式建物である。全体が三つの部屋からなっており、そのうち南北両側の部分の壁がいわゆる校倉造りになっている。中央部分は通常の板壁である。

その構造の特色から、かつては二棟双倉説と一棟三倉説とが対立したことがあった。二棟双倉説とは、当初は南北二つの独立した建物だったのを、後につないだとする説である。一棟三倉説とは、当初から現在あるような形に作られたという説である。それぞれに根拠をあげているが、現在では一棟三倉説が有力である。

何故このような様式に作ったかについては諸説あるが、南北の倉が保存用に作られ、中央の部分は什器類の出し入れのための一時的な保管場所として作られたというのが有力な説である。もっとも後になると、中央部分ももっぱら保存用のスペースとして使われるようになった。

この建築物が作られたのは天平時代のことで、今から1200年以上も前のことであるが、什器類の保存状態は驚くほど良好である。その最大の要因は、温湿度が一定であることに求められる。すなわち、建築物の内部の温湿度が安定しているのに加えて、什器類を収納していた杉製のカラビツが二重に保護する役目を果していたと考えられる。現在では、宝庫内にあった宝物は、空調設備の完備したコンクリート製の新しい宝庫(東宝庫と西宝庫)に分納されている。

正倉院に収められている宝物の由来には、大きくわけて二つある。一つは、光明皇后が東大寺の大仏に聖武天皇の遺品を献納したものであり、二つ目は、それより200年ほど後に、羂索院(三月堂)の倉庫にあった多数の仏具・什器類が正倉院の倉庫に移されたものである。前者は、聖武天皇の死後五回に分けて献納され、その数は併せて七百点に上ったが、多くの部分が持ち出されたまま戻らず、百数十点が残っているに過ぎない。後者については、移納の際の記録が残っていないので、その詳細は不明であるが、大仏開眼供養に用いられた楽器類や伎楽面の類、光明皇后が聖武天皇の法要に用いた様々の什器類などからなっている。

これらの遺物はどれも、1200年も前に使われていたものであり、それらを通じて当時の文化の状況の一端を理解することが出来る。このように古い時代の物が大量に残されている例は、世界でも珍しいとされる。


鳥毛立女屏風図:正倉院宝物

聖武天皇・光明皇后自筆:正倉院宝物


毛筆:正倉院宝物

天平琵琶:正倉院宝物

天平時代の管楽器:正倉院宝物

伎楽面:正倉院宝

刀子:正倉院宝物

天平時代の陶器:正倉院宝物

漆胡瓶:正倉院宝物




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