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密教建築4:醍醐寺



(醍醐寺金堂)

醍醐寺は空海の孫弟子である聖宝僧正を開基とし、醍醐、朱雀、村上三天皇の御願によって建立された。そんな経緯からして、密教寺院として強大な権威と勢力を誇った。

醍醐寺は醍醐山と呼ばれる山地に展開しており、山上と山下の二つの伽藍群からなる。山下伽藍は、金堂を中心として、60間の回廊を巡らし、中門、鐘楼、経蔵などを、左右対称に配置していたといわれる。しかし、永仁三年(1295)、文明2年(1470)と二度にわたって消失。その後豊臣秀吉によって再建が進められ、紀州の満願寺から堂を写して金堂とした。これが現在の金堂である。

金堂は正面7間、側面5間の大堂であり、平安時代末期ごろの建築と見られる。密教寺院の本堂で現存するものとしては、最も古いものの一つである。


(醍醐寺五重塔)

醍醐寺五重塔は、山下伽藍の東南に離れて立っている。金堂とは異なり消失を免れ、創建当時のままの姿である。創建は承平元年(931)朱雀天皇の御願によって始まり、天暦6年(952)に完成した。

高さ38メートルあまり、そのうち三分の一が相輪であるので、非常に安定感のある、しかも威風堂々とした感じを抱かせる塔となっている。

内部は彩色が施され、心柱覆板には両界曼荼羅が描かれている。そのほか、天部や真言八祖像などが描かれ、いかにも密教寺院らしい雰囲気を感じさせる。


(醍醐寺薬師堂)

山上伽藍は、堂舎を自由に配した密教山地伽藍の典型的形態を呈している。中心になる薬師堂は、寺院の創建当時から作られていたが、その後腐朽したため再建、保安5年(1124)に完成した。それが現在の薬師堂である。

桁行五間、梁間四間の規模で、中心部の内陣と庇部分の外陣とからなる。床は内外陣とも土間床で、内陣には組物間に蟇股を入れてある。





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