日 本 の 美 術
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画動物写真 |プロフィール掲示板



貞観彫刻総論


平安時代前期(ほぼ9世紀に相当)の文化を弘仁・貞観文化と呼び、特に仏像を始めとする彫刻類を貞観彫刻と呼ぶ場合がある。最近では、単に平安時代初期とか、単に9世紀の文化とかいうことが多くなったが、ここでは貞観彫刻或は貞観仏といった名称を用いることにする。

貞観彫刻は、先行する天平時代と後続する藤原時代とにはさまれた時代の彫刻であるが、天平仏とも藤原仏とも異なった独特の特徴を持っている。

天平仏は、盛唐の様式を取り入れつつ、人体の理想形を仏像の形に表現するようなところがあった。また、それを信仰した階層が主に貴族層ということもあって、おおらかな精神性を湛えていた。また、藤原仏になると、信仰の主体が大衆一般に広範囲に広がり、それを反映するような形で、仏像は大衆の悩みに応えたり、大衆の願望を受け止めたりするような、いわば大衆的な性格を強めていく。

ところが貞観仏には、以上のような性格は弱い。それは、天平仏のように大らかな精神性を具現して人々の宗教的な感情を抱擁するというよりは、人々に厳しい修練を迫るような厳しさをもっているし、表現の仕方にも異国的な(インド的な)要素が強く見られる。これは、空海が持ち帰った密教のなかに、インド的な要素が含まれていることを反映しているのだと考えられる。

またそれは、藤原仏のように、広く大衆一般を救済しようというようなおおらかさを感じさせない。それが救済するのは、自ら修練に耐えた人々なのである。こうした性格にも、僧侶集団の自己鍛錬という側面を強く持つ密教の特徴が反映されているのだと思える。

貞観仏の特徴をもう少し積極的に言うと、まずは、その肉感性である。天平仏の中にもこうした肉感性は認められないではないが、天平仏の場合には人体の理想的あり方としての肉感性であったのに対して、貞観仏の場合には、肉感性が強調されて、場合によってはデフォルメされることもある。その身体は分厚い肉として表現され、顔の表現も特異な雰囲気を感じさせる。どうみてもリアリズムの精神とはかけ離れている。

貞観仏の肉感的な面については、個々の仏像の説明の所で触れるが、総論的に言うと、異国的な、それも特にインドを連想させるような、物理的な肉感性である。こうした性格は、日本人の従来の美意識の中には見られなかったものだ。とりわけ、貞観仏によく見られる鉤鼻などは、日本人の顔には決して見られないとされていたものだ。これは、密教におけるインド的な要素がそうさせるのだと考えられる。

ついで、表現される仏の種類に変化があった。天平時代以前には、如来像が中心で菩薩像がそれを補完していたが、この時代になると菩薩像が多くなり、それも観音信仰の拡大にともない観音菩薩像が多く作られるようになった。観音像は天平時代以前にも作られたが、貞観時代になると観音像の割合は圧倒的に多くなる。それも天平時代以前には十一面観音が中心だったものが、千手観音が好まれるようにと変化した。

観音像と並んで、明王像が多く作られるようになった。明王の中でも不動明王は、観音と並んでこの時代の信仰の中心へと発展した。不動明王は、彫刻で表されたほかに、明王図の形でも多く表された(青不動、黄不動など)。

仏像の材質にも変化があった。天平時代には、銅像、塑像、乾漆像、木造などが作られたが、この時代になると、銅像と乾漆像は全く作られなくなり、また乾漆像も最初の頃は細々と作られていたがやがて作られなくなり、木造ばかりになっていった。その背後には、神仏習合のプロセスが存在し、木を神聖視する神道の考え方が仏像製作にも影響を与えたのではないかとの見方もある。

貞観仏とならんで、この時代には曼荼羅が多く作られたが、曼荼羅の説明については、別稿にゆずる。





HOME密教美術次へ










作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2014
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである