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伴大納言絵詞 上巻



(伴大納言絵詞上巻、縦31.5cm)

「伴大納言絵詞」は「信貴山縁起絵巻」よりやや遅れて、12世紀後半に作られたものと思われる。作者は後白河法皇に従属していた宮廷絵師常盤光長と考えられる。おそらく、後白河法皇の命をうけて作成したのであろう。後白河法皇は、梁塵秘抄を編集したことから知られるように、新しい美意識に敏感な人であり、そうした美意識がこの絵巻物にも反映されていると考えることができる。写実的・即物的な描き方は、従来の貴族的な美意識とは大きく異なっており、時代の変化を伺わせるのだが、そうした変化の象徴として、後白河法皇を捉えることができるであろう。

この絵巻物は、歴史上の実在人物と、実際に起きた事件を題材にしている。主人公と言える伴善雄は平安時代初期の貴族であり、大伴旅人・家持を輩出した名門大伴氏の末裔であった。大伴氏は弘仁十四年(823年)に淳和天皇(大伴親王)が即位すると、避諱のために伴氏と改姓。その後、伴善雄はとんとん拍子に出世して大納言にまで上り詰めるが、貞観八年(866年)におきた応天門の火災事件の犯人とされて失脚、からくも死罪をのがれて伊豆国に流罪となり、これをもって名門大伴=伴氏は没落した。この事件の背景には、台頭しつつあった藤原氏の陰謀がからんでいるともいわれている。

「伴大納言絵詞」は、応天門の火災に始まり伴善雄の伊豆配流に至るいわゆる「応天門の変」を、逐次的に追ったものである。その中で興味深いのは、火災を引き起こしたとされる伴大納言の動機について言及されていることである。公式の歴史書には、大納言と火災との関連に触れながら、その動機について触れたものはないので、これは、絵詞の作者の創作ということになるが、それには全く根拠がないというわけでもないらしい。おそらく、民衆の間に伝えられてきた噂のようなものを、この絵詞の作者がとりあげたのだと思われる。

全三巻からなり、上巻は応天門の火災の発生と、それに引き続き伴大納言が左大臣源信を(自分の出世のために)無実の罪に陥れる場面、中巻は子どもの喧嘩から真犯人が伴大納言であることが暴露される場面、下巻は大納言が検非違使の一行によって捕えられる場面が描かれる。

上の絵は、上巻冒頭の場面。炎に包まれる応天門を見物するために集まった群衆を描いている。大部分の人は、着ているものから身分の低いものだと推測されるが、それでもみな帽子をかぶっているのが興味深い。帽子をかぶっていないのも見かけるが、それは僧侶であるほかは、僕のような階層の人なのだろう。画面左手に近くなるほど、人びとは身をかがめたり、顔を赤らめたりしているが、それは降りかかる火の粉から逃れようとする仕草や、顔が炎の熱でほてっているさまを描いているのだろう。

なおこの場所は、大内裏の内部で、朱雀門と応天門に囲まれた空間。右手に描かれているのが朱雀門。


(伴大納言絵詞上巻、応天門の炎)

これは炎に包まれる応天門。紅蓮の炎と真っ黒な煙のコントラストが効果的だ。


(伴大納言絵詞上巻、宮中から応天門の炎を見る人々)

これは、宮中側から応天門の炎を見る人々を描いたもの。炎の右手に入る人々と比較して、かれらの身分が高いことは一目瞭然。中には女や無帽のものもいるが、殆どの者は正装している。弓を携えているのは、北面の武士たちであろう。彼らには、宮中を防御する責任があるから、こうして真っ先にかけつけたわけであろうが、炎を前にしては、弓矢も役にはたたない。

この膨大な数の人々は、みな一筆書きでさらっと描かれていることが、近年の考証の結果わかってきた。







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