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周文:室町時代の水墨画




周文は如拙の後継者として、相国寺を中心とした官学アカデミーの主催者的な立場にあった人である。また足利将軍家お抱え絵師として、幕府から俸禄を貰っていたようだ。要するに一時代における日本画壇のリーダーであったわけだ。しかしその割に彼の作品ははっきりしない。現存する作品として、周文の真筆と断定できるものは一点もないのである。そんななかで、周辺的な証拠を手掛かりに、周文の作品と思われるものの発掘がなされてきたが、決定的なものは現われておらず、伝周文作と呼ばれるものが、何点かあげられるに過ぎない。

周辺的な証拠によれば、周文は越渓と号し、相国寺の都管の職にあった。都管とは事務長というべき職務である。その都管の職務に従事しながら創作に励んだが、創作としては山水図のほか花鳥や仏画も手掛け、また仏像の彫刻にも手を伸ばしたという。現存する作品の中で周文作が確実といわれるのは、奈良の達磨寺にある達磨像ばかりなのである。もっともこれは、椿井仏師集慶の彫った作品に彩色を施したにすぎないのだが。

上は、「三益斎図(一部)」。上部に大周など八僧による賛があり、梵芳による序が別にある。序によると、応永二十五年(1418)に慧嶠中和上人が大工に命じて松竹梅下之斎と作らせたとある。この絵は、その松竹梅下之斎を三益斎として、その佇まいを描いたものであろう。山の描き方などに、周文の特徴がうかがわれるというので、伝周文作ということになっている。(伝周文作 1418年 110.5×38.8㎝ 東京、静嘉堂 重文)



これは、「竹斎読書図(一部)」。一見したところわかりづらいが、山隈に竹林があり、その一角に読書するための四阿があるらしい。構図としては、右側に高い山を配し、その左手に広々とした空間を配置している。これだけだと散漫になるところを、中央部に交差する二本の松を配することで、構図に安定をもたらせている。このあたりの構図の決め方も、周文の腕のさえと伝えられているところである。(伝周文作 1446年頃 紙本淡彩 134.8×33.3㎝ 東京国立博物館)



これは、「水色彎光」と呼ばれる山水図(一部)。三益斎図同様、中央に高山を配し、その手前に杉の巨木を前にした幽居を配している。杉の巨木が高山の手前に折り重なって見えるところから、構図にやや不安定が指摘できるが、これには、朝鮮化された北宋画の影響が指摘できるという。なお、上部には竜派など三人の賛があり、心田清播の賛に文安二年(1445)の年紀が記されている。(伝周文作 1445年 紙本墨画 107.5×32.6㎝ 個人蔵)





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