日 本 の 美 術
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画 | プロフィール掲示板



三阿弥:室町時代の水墨画




室町時代には、相国寺を中心とした禅僧たちによる芸術アカデミーと並行して、将軍の近侍として仕える同朋衆と呼ばれる者たちも、独自のサークルを作っていた。彼らは、もともと将軍の身辺をめぐる雑役に従事していた者たちだが、その中には絵師、工芸師、庭師、能・狂言師など特技を持った芸能人の一団があった。彼らは禅僧と比べて身分は低かったが、将軍の権威を背景にして、一定の勢力を誇っていた。

同朋衆のなかで、絵師のグループを代表するのが、三阿弥と呼ばれる人たちだ。三阿弥とは、能阿弥、芸阿弥、相阿弥の父子三代を称していう。阿弥は阿弥陀のことであり、阿弥陀信仰を掲げた時宗に属する人々である。彼らにはこの時代の芸能をリードする者が多く、能楽の観阿弥、世阿弥父子や、連歌師の頓阿弥、琳阿弥、庭師の善阿弥などがあらわれた。

三阿弥のうち、能阿弥は十五世紀中ごろを中心に義教、義政につかえ、その子芸阿弥は十五世紀後半に義政につかえ、孫の相阿弥は十六世紀初頭に活躍し、狩野派の祖狩野正信を指導したりした。

上は、能阿弥の代表作「白衣観音図」。右上の落款から、応仁二年(1468)七十二歳の時に、息子周健のために泉涌寺妙巌院で描いたことがわかる。数本の竹を背景として、水辺の岩に坐す観音の姿を描いたもので、図柄としては当時はやっていた構図である。(紙本墨画 77.6×39.3㎝ 個人蔵)



これは、芸阿弥の作品「観瀑図」。上部に三人の禅僧による賛があり、その一つ横川景三の賛に、絵の成り立ちが記されている。それによると、啓書記が京都で芸阿弥に学んで三年ぶりに故郷へ帰るにあたり、芸阿弥みずからこの絵を描いて、はなむけにしたとある。深山の奥に、瀑布の陰で佇む四阿を描き、人里離れた幽境の趣を表現している。幽境は禅僧の好んだ境地であった。(1480年 紙本墨画 105.8×30.3㎝ 根津美術館 重文)



これは、相阿弥の作品「山水図襖絵」。京都大徳寺の塔頭大仙院の客殿に、相阿弥作になる襖絵が二十面あったが、それらはみな掛軸に改装されている。これはその一点。宋画の技法を取り入れた作品で、周文などとは異なった感性を感じさせる。周文が北画とすれば、これは南画の代表作とも言われる。(1509年 紙本墨画 174.8×140.2㎝ 京都大仙院)





HOME室町時代の水墨画 次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである