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海北友松:作品の鑑賞と解説


海北友松は、狩野永徳、長谷川等伯と並んで安土・桃山時代の日本美術を代表する巨匠である。その画風は、永徳の豪放さ、等伯の絢爛さに比べて、繊細な風情を感じさせるもので、しかも装飾的な要素にも富んでいた。従来は、永徳や等伯より低く評価されがちだったが、近年は永徳らに負けない高い評価を受けるようになってきている。

海北友松は、武門の出である。浅井長政の武将であった海北綱親の五男として近江に生まれた。幼児に京都の東福寺にあずけられ喝食となったために、親たちが信長に討たれて死んだ時には難を逃れた。一人生き残った友松は、折あらば海北の武門を興したいと考え、槍や調馬の稽古を怠らなかったといわれる。

友松は、若年の頃狩野元信について学んだことがある。元信は友松の才能を高く評価し、いづれ高名な画師になるだろうといった、と伝えられる。その友松は、狩野派に属することなく、中国南宋の画家梁楷の絵を研究し、ほぼ独力で自分の画風を確立したといわれる。

友松は、秀吉の知遇を得たことで、画家としての活躍のチャンスをつかんだ。秀吉の催した茶会の席で、友松が席画を披露したところ、興味を覚えた秀吉が友松の素性を訪ねた。そこで浅井家の家臣海北綱親の子であると答えたところ、綱親は自分の軍法の師であったと秀吉は言い、以後友松を身近に出入りさせたという。

海北友松は、慶長三年(1598)の石田三成の筑紫派遣に同道しており、その頃には日本を代表する画家としての名声を得ていたが、彼の作品で現存しているものは最晩年に近い時期のものばかりであり、若い頃のものは残っていない。

友松は東福寺との縁で、禅寺との関係が深かった。大徳寺の住持春屋宗園のもとに参禅して、居士号を受けている。また禅寺のために障屏画を多く作成している。建仁寺はとりわけ友松が力を入れた寺であって、友松寺の異名があるほど、友松の作品を多数伝えている。建仁寺本坊方丈に伝わる雲竜図や花鳥図は友松の代表作である。

また妙心寺のためには、海北友松の彩色画の中でもっとも華やかな印象を与える牡丹図とか琴棋書画図などを作成している。

海北友松の名声は隣国朝鮮にも鳴り響いていたというから、当時としては国際的に著名な画家だった。

友松のもとには大勢の画師が集まったが、友松自身は門閥の形成を望まず、狩野派のような結束をみることはなかった。その家系は明治以降にも続いているが、絵画史上に名を遺すような画師は、友松とその子友雪だけであった。

ここではそんな海北友松の代表作をとりあげて、画像を鑑賞しながら適宜解説を加えてたい。


松に叭々鳥図:海北友松

花鳥図:海北友松


雲竜図:海北友松

楼閣山水図:海北友松

網干図屏風:海北友松

花卉図屏風:海北友松

婦女琴棋書画図屏風:海北友松

琴棋書画図屏風:海北友松

三酸・寒山拾得図屏風:海北友松

月下渓流図屏風:海北友松




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