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両こく回向院元柳島、馬喰町初音の馬場:広重の名所江戸百景



(5景 両ごく回向院元柳島)

両国を含む本所の町は、明暦の大火以後にできた。まず隅田川に橋がかけられ、その東詰めに、大火で死んだ約十万人の人びとを弔うため、回向院が作られた。その回向院では、無縁仏を回向するために、年に二回勧進相撲が催された。それが今日の大相撲へと発展するわけである。

これは回向院から元柳橋方面を眺めたもの。元柳橋は、薬研堀にかかっていて、もともとは単に柳橋と呼ばれていたが、神田川の入り口に柳橋が作られて以降、元柳橋と呼ばれるようになった。

手前に見えるのは勧進相撲のやぐら太鼓。この太鼓は場所のある日の早朝と、取り組み終了時との二回叩かれた。そのやぐら太鼓が前景に大きく描かれ、元柳橋をはじめ背景の光景がぐっと小さく描かれているのは、広重一流の誇張法である。


(6景 馬喰町初音の馬場)

馬喰町は旧奥州街道の出発点。名前の由来は、馬喰町三丁目の西側にあった馬場から来ている。その馬場を初音の馬場と言った。その馬場を拠点にして馬の取引がなされ、博労たちが大勢住んでいたことから馬喰町と名づけられた。その昔、家康が関が原に向って出発した際、ここで馬揃えをしたとも言われる。

絵には見えないが、このあたりには郡代屋敷があって、幕府直轄地における訴訟を取り扱っていた。直轄地の農民や町人は、訴訟事があるとここへ訴え出た。そんな彼らの宿泊所として、一帯には公事宿と呼ばれる旅館が集中していた。

背後に見えるのは馬喰町二丁目の火の見櫓。半鐘がかけられているのは町日消しのもの。幕府定火消の火の見櫓には大太鼓が、大名屋敷の火の見櫓には板木が付けられていた。





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