日 本 の 美 術
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画 | プロフィール掲示板



吾嬬森連理の梓、柳島:広重の名所江戸百景



(31景 吾嬬森連理の梓)

吾嬬の森は、今の墨田区の北東部、東武亀戸線の沿線にあった。北十軒川が旧中川に合流するあたりである。そこに日本武尊の妃弟橘媛をまつった吾嬬権現社があって、その境内に巨大な楠がたっていた。大きく二股に別れていたので、人々はそれを連理の楠と呼び、神木として仰いだ。

広重は、どういうわけか、この楠を梓の木と勘違いしたようである。絵には、水沿いの小道の奥に小さな祠があり、そのわきに連理の梓が描かれている。参道の両脇には、幟が連なるように並んでいる。

手前の川は旧中川である。舟の通る様子が描かれているが、旧中川は江戸の東部の水運を担っていたものと見える。家康が大規模な河川改修工事(荒川の西遷、利根川の東遷)をほどこすまでは、荒川は旧中川に流れこんでいた。


(32景 柳島)

墨東の北十軒川と横十軒川がまじわるところの南西の角を柳島といった。亀戸天神の裏側の北西部にあたるところである。なんということもない場所なのだが、どういうわけか、徳川時代には名所の一つになっていた。落語の柳派は、ここが出身の地である。

絵の右手の川が横十軒川、その上部が北十軒川である。画面真ん中の建物は、会席茶屋として有名だった橋本、その南側の、赤い塀に囲まれているのは。下総真間弘法寺の末寺で、北辰妙見菩薩を祀っているところから、妙見様と呼ばれ、多くの人の信仰を集めていた。かの北斎も、この寺にちなんで北斎辰政雷斗と名乗り、それを縮めて北斎となった。

川には船の行き交うところが描かれているが、人々は船に乗ってこの地へやって来たという。日本橋方面からは小名木川から横十軒川に入って北上し、浅草方面からは、枕橋から北十軒川に入って東進した。





HOME 広重江戸百景次へ








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2020
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである