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吾妻橋金龍山遠望、せき口上水端はせを庵椿やま:広重の名所江戸百景 |
(39景 吾妻橋金龍山遠望) 吾妻橋は安永三年(1774)、墨田川の五番目の橋としてかけられた。徳川時代では最後の橋である。この絵は、その吾妻橋を、金龍山浅草寺とともに眺めた構図。背景に富士山が見えることから、吾妻橋の上流から眺めたかたちだ。手前に舟がつないであるから、おそらく竹屋の渡しに係留されているのだと思う。 舟の後半部を大アップで描いているところは広重一流の誇張法。左端に女の上半身が描かれているが、なぜかこれも後半身だけである。この船は町人向けの屋形船。葭簀が巻き上げられているところから、それとわかる。女はおそらく芸者で、旦那衆の相手をしているのであろう。 舟の周囲には桜の花弁が舞い跳んでいる。この絵では強調されていないが、隅田川のこのあたりの両岸には、桜の並木が植えられていて、春には賑やかに咲き誇っていた。 (40景 せき口上水端はせを庵椿やま) 関口は神田上水のための水をとる洗堰があるところで、いまの江戸川公園あたりにあった。ここからとった水を、目白台の中腹を経て小石川の水戸屋敷内を通らせ、水道橋を渡って江戸市中に配給していた。 延宝五年(1677)から八年(1680)にかけて、この洗堰の改修工事が行われた。その際に、松尾芭蕉が水番屋としてかかわったことはよく知られている。芭蕉は土木技術に明るかったといわれる。その芭蕉の五十年忌に、関口付近の大地の中腹に芭蕉案をたてた。このあたりは、椿の木が多いところから椿山とよばれ、そこにあった武家屋敷は椿山荘と呼ばれた。 この絵は、関口の手前から、芭蕉庵を眺めた構図。右手の建物が芭蕉庵である。左手奥に広がっているのは、早稲田のあたり。思い切って単純化してある。 |
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