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両国橋大川はた、浅草川大川端宮戸川:広重の名所江戸百景



(59景 両国橋大川はた)

両国橋は明暦の大火(1657)の教訓から、寛文元年(1661)に架けられた。当初は大橋と呼ばれていたが、武蔵、下総の国境にあるところから、両国橋と呼ばれるようになった。その両国橋から霊岸島にかけての墨田川右岸を大川端と呼んでいた。

この絵は右岸の日本橋川から対岸の本所側を望んだ構図。両国橋の両橋爪は火除地としての広小路が設けられ、そこに料理屋や待合が並ぶ一方、芝居小屋などもかかって、江戸随一の歓楽街となった。この絵の手前に描かれているのは、日本橋側の広小路の様子である。

両国橋には大勢の人々が行きかい、橋の下には船が行きかっている。隅田川は、江戸の物資輸送の大動脈であった。対岸には波除のための百本杭が打ち込まれている様子が見える。その背後は幕府のお竹蔵である。


(60景 浅草川大川端宮戸川)

隅田川とは千住大橋から下流をさしていうが、浅草付近では浅草川とも今戸川とも呼ばれた。また、両国橋から下流を大川と呼んだ。そして大川の右岸を大川端と称した。

この絵は、両国橋の上から隅田川の上流を眺めた構図。遠景にある山は筑波山である。手前の橋の上と、その先の舟の上に見える飾り物は、大山講のための祭具梵天である。徳川時代には、富士講と並んで大山講が盛んになった。人々は講を組んで大山参りをし、祭具を奉納した。祭具にはこの梵天のほか、木太刀も用いられた。

画面左手には、神田川の河口の様子が描かれている。河口の料亭は柳橋の万八楼である。





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