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神田紺屋町、京橋竹がし:広重の名所江戸百景



(75景 神田紺屋町)

徳川時代の神田一帯には職人町が形成されていて、職域ごとに住んでいた。町の名は、その職業を反映したもので、紺屋町には紺屋の集団が集まっていたのである。この他、鍛冶町(鍛冶屋)、大工町(大工)、白壁町(左官)、雉子町(木地師)、須田町(果物)などがあった。

紺屋町の藍染職人たちは、幕府から預かった生地を藍染していた。町の傍らを小川が流れていて、そこで染めた布をさらしていた。無論、町人からの注文も受けた。

この絵は、屋根の上に組んだ櫓に、染め上がった布を干している様子を描いたもの。中ほどの布に書かれた「魚」という文字は、版画の版元魚栄からとったもの。その右手の四角い模様は、広重の広を図案化したものだ。


(76景 京橋竹がし)

京橋は東海道に架けられた橋で、外堀と八丁堀を結ぶ京橋川にかかっていた。その京橋川の下流の左岸一帯に、竹問屋が集まっていて、竹河岸と呼ばれた。竹は下総や下野から、筏に組んで運んできた。

この絵は、集められた竹が川沿いに壁のように組まれている様子を描いたもの。人間と比較して、異常に高く描かれているのは、広重一流の誇張だ。

橋の下の水面には、竹を組んだ筏がいくつか浮かんでいる。また、手前にいる船は、竹細工を運搬しているのだろう。向こう側に見える橋は、炭屋橋。竹の裏側に炭屋が集まっていたという。





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