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浅草金龍山、よし原日本堤:広重の名所江戸百景 |
(99景 浅草金龍山) ここから先が冬の部。金龍山は浅草寺の山号。大昔に天からこの地に金鱗の龍が舞い降りて来たという伝説にちなんだもの。浅草寺は大化元年(645)の創建で、江戸でもっとも古い寺だ。徳川時代には、大勢の庶民を引き寄せたが、それには周辺にあったいくつかの遊興施設が大いに働いていた。 本堂の裏には奥山といわれた遊興場所があったし、その奥には吉原の遊女買いが、また浅草寺の北東部には歌舞伎小屋が集まった猿若町があった。人々は、寺に参ったついでに、それらの遊興場所で気晴らしをしたのである。 この絵は、雷門から仁王門を覗きみた構図。いまでは雷門と仁王門の間に、仲見世と呼ばれる土産物屋の連なった通りがあるが、徳川時代には、塔頭がつらなっていた。なお、雷門にかかった大提灯は新橋の信徒から寄進されたもので、「志ん橋」と大書されている。 (100景 よし原日本堤) 日本堤は、家康が防災の目的から作らせた堤防。日本中の大名がかかわったことから日本堤と呼ばれるようになった。その南側の湿地帯に、日本橋芳町の遊廓が移転してきて、新吉原と呼ばれた。明暦三年(1657)のことである。 新吉原ができると、日本堤は吉原へ行く道として使われるようになった。遊客は橋場で船を降りた後、籠に乘って日本堤を行き、新吉原の遊女を訪ねたのである。端唄に「猪牙で行くのは深川通い、籠で行くのは吉原通い」とある。 |
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