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高田の馬場、高田姿見のはし俤の橋砂利場:広重の名所江戸百景



(115景 高田の馬場)

高田馬場の名は越後高田にちなむ。高田藩主となった家康の六男忠輝の生母高田殿が、ここに庭園を開き、そこに家光が馬場を作らせ、馬術の練習所とした。そこから一帯の土地が高田馬場と呼ばれるようになった。

馬場は細長い形状だったので、弓術の稽古に適した。そこで弓術の大会がよく催された。この絵は、その弓術大会の様子を描いたもの。手前左手に的が大きく描かれ、その先には大会に参加した武士たちが出番を待っている。

馬場の周囲は、馬を走らせるためのトラックになっていた。この絵でも、トラックを走る二頭の馬が描かれているが、なぜか逆の方向を向いている。なお、高田の馬場は、忠臣蔵で有名な堀部安兵衛が、堀部姓を名乗る前に、叔父の仇討をした場所だ(高田は、江戸言葉では「たかた」と発音する)。


(116景 高田姿見のはし俤の橋砂利場)

高田馬場の北側に神田上水が流れ、そこに土橋がかかっていた。これを俤(面影)橋といい、現在でも存在している。姿見橋というのは、神田上水の更に北側を流れるどぶ川にかかる橋だったらしいが、現在はどぶ川ともども存在しない。

この絵は、俤橋を南側から眺めた構図だが、広重はこれを姿見橋と勘違いしている。当時出回っていた金鱗堂の江戸市街図にも姿見橋とあるので、勘違いするのは無理もない。

俤橋をわたったところ、この絵で黄色くなった畑のあるあたりを山吹の里といった。太田道灌が雨具を借りようとして、少女から山吹の枝を差し出され、「七重八重花は咲けども山吹の実の一つだに無きぞ悲しき」と歌われたところである。





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