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上村松園の美人画:作品の鑑賞と解説


上村松園(1875-1949)は、明治以降の近代日本画の礎石を築いた画家の一人と評価される。決して日本画全体を代表するようなものではないが、これがなければ日本画が物足りなく感じるであろうことは誰もが認めるだろう。日本画の主流は横山大観ら、狩野派をはじめとした日本画の伝統を踏まえたものだったが、松園は鏑木清方とともに、風俗画風の美人画に新しい境地を求めた。美人画は徳川時代に既に、浮世絵としてある程度の完成を見せていたが、松園や清方によって、本格的日本画の中心に躍り出たのである。以後美人画は、日本画の有力なジャンルとして発展していく。

上村松園は京都の商人の家に生まれた。父親は松園が生まれる前に死んでおり、生前絵心があったとも思われないので、松園の絵に対する情熱は自発的だったと考えられる。かなり早熟で、明治23年に催された内国博覧会の出展作品「四季美人図」が来日中の英国皇子に買い上げられるというエピソードが残っている。松園15歳のときのことであった。

絵の修行は、12歳の年に京都府画学校で鈴木松年に師事したことに始まる。松年は、円山・四条派の画家で、狩野派の画風を取り入れるなど、折衷的な画風であった。松園の号はこの松年の一字を貰ったものだ。この松年から、松園は写実的な画風を学んだ。四条派は円山応挙の流れをくみ、したがって写実主義を実践していたのである。

松園は、美人画に志したが、松年は美人画の指導ができなかった。そこで松園は18歳の年に、幸野楳嶺の塾に移った。楳嶺は日本画の刷新につとめる意欲的な画家で、すぐれた弟子を多くもっていた。しかし入門後わずか二年で死んでしまったので、松園は楳嶺の高弟竹内栖鳳に引き続き師事した。栖鳳のもとで松園は自分自身の画風を確立していくことになる。

上村松園の名が画壇に知られるようになったのは、明治33年(1900)25歳のときに、日本絵画協会展に出展した「花盛り」の成功によってだった。これは市井の風俗の断面を切り取ったもので、かならずしも美人画とはいえないが、その後の松園の美人画を先取りしたものといえる。この作品は、背景を一切省き、人物だけを描くというものだったが、そうしたスタイルは以後松園の画風を特徴づけることとなる。

とはいえ、背景をともなった作品も無論ある。特に初期の作品は、風俗画的な趣向のものが多いので、勢い背景にも力を入れている。松園が背景を省略して人物だけを浮き出させるようにして描くのは、美人画家としての名声が確立して以降のことである。

松園の美人画の特徴は、モデルにわざとらしいポーズを取らせるのではなく、市井に普通にみられるような女性の仕草を、スナップショット的に切り取るところにある。そこは鏑木清方の美人画にも通じる。そこで松園と清方とは比較されることが多かった。よく言われるのは、清方の美人画は女の色気を感じさせるが、松園にはそういうものがないかわり、精神的なものの表現に努めているというものだ。じっさい松園自身、自分の描いた女性は、男の目を意識しているのではなく、自分自身の精神性を重んじているのだ、というような趣旨のことを述べている。

上村松園は、その生涯のほとんどを京都で暮らし、京都人の生き方にこだわった。松園のモデルたちは、徳川時代の京都の女性を意識しながら描かれている。そこは同時代の東京の女性を強く感じさせる清方とは大きな違いだ。

松園には能に取材した作品が多いが、これも京都らしさへのこだわりの現われといえなくもない。能自体は京都の専売特許ではなく、東京始め全国的な展開を見せたわけだが、京都には金剛流の家元があって、京都らしい能楽を目指していた。松園はその金剛流の当主金剛巌に親しく師事して、能に取材した作品を多く残した。

松園は非常に精力的な画家で、生涯に夥しい数の作品を残した。女性画家としてはじめて文化勲章を受章したり、日本の女性芸術家の鑑として見られることもある。戦時中には、進んで戦意高揚に協力するなど、権力に対して融和的な姿勢をとった。京都は直接空襲を受けることがなかったので、松園は敗戦近くまで京都に居続け、多くの作品を制作した。息子松篁のすすめで昭和20年2月に奈良の別荘に疎開し、以後死ぬまでそこに住んだ。

上村松園の代表作としては、「序の舞」や「鼓の音」が有名だ。これらは、能を強く意識した作品である。その他に能を意識した作品としては、「草紙洗小町」や「焔」があり、松園が能に日本的な美の典型を見ていたことが伺われる。

ほかに、亡母の面影を偲んだ一連の作品がある。「母子」や「夕暮」といった作品がその代表的なものだが、それらを見ると、松園がいかに母親を敬慕していたかがわかる。母親一人の手に育てられたわけだから、自然な感情だといえよう。松園は「青眉抄」をはじめ多くの文章を残している。それらの文章から彼女の絵に対する思いとか、世相への関心とかが読み取れるので、松園研究にとって貴重な資料となる。

ここではそんな上村松園の代表的な作品を取り上げ、鑑賞しつつ適宜解説・批評を加えてみたい。(上の絵は、松園十六歳のときの自画像)


人生の花:上村松園の美人画

よそほひ:上村松園の美人画

遊女亀遊:上村松園の美人画

月影:上村松園の美人画

虫の音:上村松園の美人画

美人之図:上村松園の美人画

蛍:上村松園の美人画

娘深雪:上村松園の美人画

舞支度:上村松園の美人画

むしの音図:上村松園の美人画

花がたみ:上村松園の美人画

焔:上村松園の美人画

楊貴妃:上村松園の美人画

待月:上村松園の美人画

春秋:上村松園の美人画

新蛍:上村松園の美人画

青眉:上村松園の美人画

母子:上村松園の美人画

鴛鴦髷:上村松園の美人画

志ぐれ:上村松園の美人画

序の舞:上村松園の美人画

雪月花:上村松園の美人画

草紙洗小町:上村松園の美人画

男舞之図:上村松園の美人画

鼓の音:上村松園の美人画

夕暮:上村松園の美人画

晩秋:上村松園の美人画

新蛍:上村松園の美人画

初夏の夕:上村松園の美人画




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