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萬鉄五郎の世界:日本の洋画の先駆者


萬鉄五郎(1885-1927)は、日本の洋画の先駆者である。明治以降の洋画界において、西洋美術の模倣にとどまらず、主体的な創造に取り組んだ、最初の世代を代表する一人である。それまでの洋画界は、基本的には西洋美術の模倣の範囲を出なかった。西洋美術は常に手本であり続け、その手本通りに描くことが、洋画家の仕事であり、そこに器用さは求められても、創造性はあまり問題にならなかった。ところが萬鉄五郎は、同時代の西洋の画家たちと同じレベルにおいて、新たな美の創造に立ち向かった。西洋の画家たちは萬鉄五郎にとって、手本というより同時代のライバルというべきものだったのである。

萬鉄五郎は自分の名をもじって「鉄人」と自称していたが、彼のエッセー「鉄人独語」には、「僕は全く誰の感化も受けない」と書いている。その「誰」は、とりわけ西洋美術をさすのであって、自分はいわゆる洋画を描いているが、それは西洋人の感化を受けたわけではなく、自分自身で工夫したものだといっているわけであろう。ではどんな工夫かといえば、萬鉄五郎は自身の創作態度を次のように言っている。「僕から言えば自然はない。外界と自己があるばかりである・・・外界は形態と色彩である。形態と色彩は個人の人格の奥深い神秘な力を呼び覚ます」

こう言うことで萬鉄五郎は、自分は自分自身の内部から湧き上がってくる神秘な力に導かれて、形態と色彩という形で外界を表現するのだと言いたいのであろう。

萬鉄五郎は、東京美術学校(現東京芸術大学)で西洋画を学んだ。かれの出世作となった「裸体美人」は、美術学校の卒業制作として描いたものである。この作品には、ゴーギャンなど後期印象派やマチスのフォーヴィズムの影響が見て取れる。東京美術学校の洋画科は、当時日本において西洋美術の動きを最も身近に感じられるところだったから、萬鉄五郎も、西洋美術の新しい動きに敏感だったのだろう。

後期印象派は、すでに過去のものだったが、萬鉄五郎は、まさに同時進行形だった西洋美術の動きにも敏感だった。未来派やキュビズムといった動きである。とくにキュビズムには多大な関心をよせ、立体的なものを平面に再現する努力をしている。そうした新しい美術の動きを積極的に取り入れた作品を、美術学校を卒業した年に集中的に描いている。

萬鉄五郎は、大正二年(1913)、つまり美術学校を卒業した翌年に、短期志願兵として旭川第七師団に入隊し、除隊後は家族を伴って郷里岩手県土沢にもどって、電灯会社代理店を営むかたわら絵の制作に携わった。この土沢時代に、画風が一変した。全体に褐色がかった暗い画面に転換したのである、一方で、キュビズムへの嗜好が強まった。そこで暗い画面を基調にしながら、キュビズム的な立体性を感じさせる画風を確立することとなった。「筆立のある静物」(1917)や「もたれて立つ人」(1917)は、そうした画風を代表する作品である。

土沢から再度東京へ出てきたのは大正五年(1916)、その後大正七年(1919)に神奈川県茅ケ崎に転居し、以後死ぬまで茅ケ崎を拠点とした。茅ケ崎は明るい自然に恵まれていることもあり、萬鉄五郎の画面は次第に明るさを増していく。萬鉄五郎の活動期間はほとんどすべて大正時代と重なっており、したがって15年ほどしかないのであるが、そのうち晩年の数年間は明るい画面作りにつとめている。

その晩年の作品には、萬鉄五郎なりの精神的な要素が盛り込まれている。その精神性とは、上述した「鉄人」のことばで言い表せられるもので、外界と内面との融合を目指すものであったが、そこに萬鉄五郎は日本的なものへのこだわりも表現しようとした。裸婦に日本髷を結わせるところなどは、萬鉄五郎ならでは思いつかぬ発想であろう。

萬鉄五郎は、満四十一歳の若さで死んだのだったが、それには最愛の娘を失った打撃があったのだと言われている。長女のトミ子が、結核で死んだことを、鉄五郎はいたく嘆き、長女の死から半年もたたぬうちに、そのあとを追うように死んだのである。そんなところに萬鉄五郎のナイーブさを感じさせられる。

ここではそんな萬鉄五郎の代表的な作品を取り上げ、鑑賞しながら適宜解説・批評を加えたい。


裸体美人:萬鉄五郎の世界

赤い目の自画像:萬鉄五郎の世界

雲のある自画像:萬鉄五郎の世界

ボアの女:萬鉄五郎の世界

風船をもつ女:萬鉄五郎の世界

ガス灯:萬鉄五郎の世界

日傘の裸婦:萬鉄五郎の世界

手袋のある静物:萬鉄五郎の静物画

筆立のある静物:萬鉄五郎の静物画

もたれて立つ人:萬鉄五郎のキュビズム的肖像画




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