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銀閣寺:日本の寺院庭園




銀閣寺は、足利八大将軍義政が、将軍職を子の義尚に譲った後、文明十四年(1482)から延徳二年(1490)の死に至るまで、八年間の歳月をかけて、隠居所として造営した東山殿を起源としている。東山殿が慈照寺として相国寺の末寺に加えられたのは、義政の死後のことである。

義政が東山の造営に取り掛かった文明十四年といえば、応仁の乱が終わった文明九年からいくばくも経っておらず、政治は乱れたままで、都は荒廃したままだった。民衆はまだ塗炭の苦しみを舐め続けていたわけである。そんなときに、将軍職を辞退したとはいえ、いまだ日本の政治に重要な責任をもっていたはずの義政が、その責任を省みず、自分ひとりの道楽のために、祖父の義光のひそみに倣い、広壮な邸宅を営んだわけである。彼がこの邸宅を東山殿と呼んだのは、義光が自分の邸宅を北山殿と呼んだことに倣っている。

この邸宅を建てるにあたって、義政の念頭にあったのは夢窓国師の作った西芳寺だったといわれる。西芳寺の理念は、東山殿に二つの点で引き継がれた。一つは、墓地の跡に建てるという点、もうひとつは、斜面にかけて上下二段式の構造とする点である。

西芳寺の場合には、穢土寺という寺の跡地を使い、その墓石を枯山水に取りこんだりした。東山殿は、延暦寺の末寺浄土寺の墓地を使用して造営した。このため延暦寺は、義政のことを罰当たりと言って激しく責めたのであった。また、いまでは上下二段構成の痕跡は認められないが、創建当時は、上部に枯山水を配していたことが、近年の発掘調査で判明した。

ただでさえ民衆の苦しみに無関心な義政は、この邸宅の造営に要する資金を、臨時税という形で徴収したほか、膨大な数の人夫を徴集したり、大寺院からさまざまなものを盗み出して、東山造営のために利用した。たとえば、金閣寺からは二階に安置されていた仏像を盗んで自分の寺の本尊としたり、天皇の隠居所仙洞御所からも気にいった石を盗み出した。

そんなこともあって、義政が死ぬと、北山殿に持ち去られたさまざまなものが取り戻されたばかりか、材木のかわりと言って、堂宇が破壊されたりした。略奪の上に成り立っていた御殿は、略奪によって崩壊したわけである。それでも、北山殿のシンボルであった観音堂、すなわち銀閣は破壊を免れた。

義政の死後、東山殿改め慈照寺は、荒放題になってしまったが、徳川時代の初期に、宮城丹波守豊盛とその孫豊継によって再建された。名称が銀閣寺となったのは、この再建以降のことである。

現存する建物のうち、創建当時のものは銀閣と東求堂である。ただし東求堂は当初池のほとりにあったものを現在地に移動している。東求堂を移転することによって生まれた空き地を利用して、銀砂灘が作られた。これは、月光を反射させて楽しむのが目的だった。この目的の一環として、銀閣の軒下に銀粉が施されたらしい。銀砂が反射した月光を、銀閣の軒下の銀で受けて、月光の微妙な美しさを楽しもうという趣向である。



上は、斜面の上から眺め下ろした銀閣寺の建物。二層からなり、一階は住宅風、二階は観音堂の名の由来となった観音像を安置する空間である。


(銀砂灘)

銀砂灘は、白砂を地上よりやや高く敷き詰め、月光を反射する工夫がなされている。


(庭園)

庭園にある池の石組みは、創建当時のままといわれる。







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