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龍安寺:日本の寺院庭園




龍安寺は、宝徳二年(1450)、細川勝元が妙心寺の義天玄承を開山として創設した禅寺である。この寺は石庭で有名だが、これが有名になったのは戦後のことである。そんなこともあって、この石庭の造営時期や設計者については、研究が浅く、いまでも定説というものがない。

この寺にまつわる記録が二つある。一つは天正十六年(1588)に秀吉一行が訪れて糸桜を歌に詠んだというもの、もうひとつは延宝八年(1680)に黒川道佑が訪れたさいの印象記である。秀吉一行の記録からはこの石庭の存在は認められないのに対して、黒川道佑の印象記にはこの石庭が出てくる。ここから、この石庭は、1588年と1680年の間に作られたと推測されるが、さらに時期を絞って1619年から1680年の間に作られたと推測される。

というのも、禅寺を中心にして石庭が作られるようになったのは、金地院崇伝が新寺院制度を制定し、そのなかで石庭の造営を許可した元和五年(1619)以降のことだというのが定説だからだ。この新寺院制度に基づいて、南禅寺本坊方丈庭園や金地院の石庭などが次々と作られたのであるが、竜安寺の石庭もそれらとほぼ同時か、それよりも後に作られたと考えるのが自然なのである。

この石庭の特徴はいくつかある。まず、石の配置。向かって左側(東)から、5、2、3、2、3づつ五つの群に分かれて配置されている。石は合計15あるのだが、不思議なことにどの角度から見ても14しか見えないように工夫されている。また、この五つの群は、虎の子渡しと呼ばれているが、それは母親が子寅を連れて水をわたるという中国の説話に基づくものである。

次に、石庭の設計。この石庭は手前から奥へ向かって、また東側から西側に向かってゆるく傾斜している。そのことによって、玄関側から見た場合と、方丈の内部から見た場合のいづれも、実際以上に遠近があるように感じられる。こうした工夫は、小堀遠州の作である南禅寺方丈庭園にも見られるところなので、龍安寺の石庭も遠州の手になるのではないかとの説もある。

上の写真は、玄関側から石庭を眺め渡したもの。下の写真は、方丈の縁側から石庭を見たところ。いづれも、奥へ向かって石庭が傾いていることから、実際以上に遠近を強く感じる。









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