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京都観庭記5:清水寺界隈



(清水寺舞台を見上げる)

京都へ旅行したら清水寺に立ち寄らぬ手はあるまいというので、大原を辞すとバスと地下鉄を乗り継いで、清水寺を訪れた。その地下鉄の構内で、ひとつ気になったことがあった。エスカレータの立ち位置について定まった決まりがないようなのだ。東京では一応、立ちたい人は左側に立ち、右側は歩きたい人のためにあけておくというのがエチケットだ(大阪はその反対)。ところが京都では、そうしたエチケットが確立されていないらしい。ある場合には人々は東京同様左側に立ち、あるケースでは大阪同様右側に立つ。これはその時の勢いによってそうなるらしい。だから、右側に立つ人と左側に立つ人とが入り乱れて、結局歩きたい人が歩けなくなる場面も生じてくる。過渡期の現象なのだろう。

五条通りを歩き、途中から脇へそれた坂道(茶碗坂)を上って行くと、三重塔が工事の養生に包まれた姿で立っているのが見える。さては工事の最中かと不安になったが、工事中なのは三重塔だけで、本堂の舞台に上ることができた。

舞台の上はあいかわらず芋を洗うような混雑ぶりだ。とてもゆったりお参りしている場合ではない。仲間の姿を見失わないように気をつけるので精いっぱいだ。音羽の滝下に至る石段を下り、舞台の足もとから舞台を見上げる。頑丈な束組が舞台を支えている様子がよく見て取れる。これは懸造りといって、密教の山岳寺院に特徴的な様式だ。清水寺は本格的な山岳寺院ではないが、いちおう密教寺院のはしくれだ。また、観音信仰の一大拠点にもなっている。

伝説では、歴史上の英雄である坂の上の田村麻呂が創建したということになっている。田村麻呂は観音の加護を得て蝦夷討伐に成功したのだといわれる。その田村麻呂を主題にした謡曲「田村」は、かつては武家に最も愛された曲目だったもので、筆者も気に入っている曲の一つだ。

ところで、筆者が清水寺を始めて訪れたのは、たしか高校の修学旅行の折だったから、かれこれ半世紀も前のことだ。爾来京都を訪れるたびに、清水寺には必ず立ち寄ったから、もう何度目になるかわからない。また、今後再び訪れることができるかもわからない。というわけで、寺域の様子をしみじみと眺めわたした次第だった。

帰路は三年坂から二年坂、一年坂と、数字が下がっていくように、順次下って行った。このあたりは実に絵になる光景が広がっている。いつ来ても眺めはあきない。ところが、もっと絵になる光景を、今回は目にすることが出来た。高台寺の左手の細道を円山公園の方向に歩いていくと、左手に細い路地が見えて、その両側に瀟洒な和風建築が連なっている光景が見えた。その光景に魅せられて、是非もなく路地に分け入っていくと、石畳の細い路地が次々と現れて、その両側にはなつかしい思いを喚起させられるような、古い日本の世界が広がっているのを感じさせられた。まるでタイムマシンで、異次元の世界に迷い込んだような気持になった。この辺は、祇園の料亭街の一角なのだろう。こんなところに腰を休めて、のんびりした気分に耽ったら、さぞ浮世の垢を洗い流すことができるだろう。


(祇園の料亭街を行く)

今日も高台寺を見物する暇はなかったが、そのかわりに古い京都の光景を見ることが出来たのだから満足するとしよう。

というわけで、日が暮れかからんとする頃、宿に投じた。大風呂で汗を流した後、食堂で夕餉をとる。昨夜は満員だった食堂は、今日は我々しかいない。これなら周囲を気にせず大声で談笑することができる。もっとも周囲に人がいたからといって、遠慮するような我々ではないが。

ぽちゃっと可愛い中居さんの世話で、次々と料理が運ばれてくる。昨夜は純粋の京料理だったが、今夜は肉料理を混ぜたりして、いささか洋風にアレンジしてある。ここは普段外国人も多いようだから、そんな具合にしているのだろう。話が弾んで酒も進み、大徳利を十本以上あけてしまった。とはいえ一人あたりに換算すれば、せいぜい五合程度のことだ。うわばみたる我々にとっては、朝飯前の量だ。

というわけで、今日も朝から一日中酒を飲み続けた次第だった。晩餐のあとも一部屋に集まって、深夜まで飲み続けたのである。






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作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2014
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