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京都祇園祭の旅その三:京都祇園祭山鉾巡幸



(祇園祭後祭山鉾巡行烏丸御池にて)

七月二十四日(金)晴。この日は祇園祭の後祭山鉾巡行催さる。よってホテル一階ティーラウンジにて朝餉をすますや、地下鉄に乗りて烏丸御池の交差点に至り、巡行行列の出発するところを見物せんとす。出発時刻は午前九時半にて、それより四十五分ほど早めに現地に着けば、山鉾はすでにあらかた集合し、出発を待ちをれり。見物客もそろそろ集まりはじむるところなりしが、余は歩道と車道の境に位置を占め、比較的明瞭に行列を見ることを得たり。

行列は九時半丁度に出立す。先頭は橋弁慶山、その後を北観音山、役行者山、八幡山、鈴鹿山、南観音山、鯉山、黒主山、浄妙山と続き、しんがりは大船鉾なり。先頭からしんがりまですべて眼前を通過するに三十分ほどを要したり。

以下、山鉾個々について解説す。


(橋弁慶山)

後祭山鉾巡行の先陣は橋弁慶山と決まりをりし由なり。能橋弁慶より名場面を取り出せるなり。すなはち五條の橋の上にて、弁慶が長刀を揮ひ牛若丸に襲ひかかるところを人形のそぶりに表せしなり。


(北観音山)

二機目以降は抽選によって決まる由。この日は北観音山が二機目を勤めたり。


(役行者山)

三機目は役行者山なり。役行者は、山伏の総元締にて、祇園祭の目的たる疫病退治ににも深き縁あるなり。


(鈴鹿山)

五機目は鈴鹿山なり。悪鬼退治の鈴鹿権現を祀る山車なり。


(南観音山)

六機目は南観音山なり。祇園の山鉾を飾る絨毯には異国情緒豊かなる図柄大けれど、なかでも南観音山のそれは、ペルシャ風の図柄を施し、もっとも異国風なる情緒を感ぜしむるなり。


(黒主山)

八機目は黒主山なり。能志賀より大伴黒主の花見のさまをあらはせしものなり。


(浄妙山)

九機目は浄妙山なり。平家物語宇治川の合戦の巻より、三井寺の僧兵筒井浄妙の一番乗りとそれを阻止せんとする一来法師の戦いをあらはせしものなり。悪しう候山ともいふ由。


(大船鉾)

しんがりは大船鉾なり。これもまた、しんがりを勤むるべき決められをるが如し。鉾と称するうちに、鉾を持たざる唯一のものなり。

行列の通り過ぎたる後、見物人はその後を追ひかけて、河原町御池方面へ一斉に移動す。余もまた彼らとともに御池通りを東し、川原町御池の交差点の一角に位置を占めんとす。されど見物人の数夥しく、都合よく身をおさむることを得ず。見物人の頭越しに山鉾の様子を眺めたり。


(河原町御池交差点における山車の引き回し)

川原町御池交差点にさしかかりたる山鉾は、そこにて九十度回転し、東より南へと方向を変へて進まんとす。小振りの山の類は担ぎ手の肩に担がれて容易に方向を変へたれど、巨大な鉾は簡単にはまひらず。南観音山のごときは、五六度も失敗せるあげくやうやく角度をかへしほどなり。


(花笠の先頭を行く子ども神輿)

山鉾の行列が河原町御池交差点を通過せる後、花笠の行列続いて通過す。これは、八坂神社前より出発し、寺町通りを北上して御池通りを東し、河原町御池交差点を南して、再び八坂神社に至るべく進むなり。先頭には、各町会の子ども神輿、その後を騎馬の行列やら芸妓を乗せし花笠車の行列など、さまざまに趣向を凝らせる行列続きぬ。聞けば行列の参加者千名を越すといふ。


(子どもの騎馬部隊)

この行列は、前祭と後祭統合せられたるを機に、後祭の山鉾巡行に変わるものとして取り入れられたる経緯あり。されば、後祭の復活に伴い、廃止せんとする動きもありしが、そのままの形で残れると言ふ。これはこれでなかなかの見ものなれば、今後も継続するがよろしかるべし。


(芸妓衆の部隊)

花笠の通過したるあと、炎天下に長時間さらされてすっかりのぼせ上がる。このままにては熱中症にかかる恐れを感じたれば、暫時ホテルにて休憩せんとす。

河原町御池交差点より地下鉄に乗り、京都駅に戻る。地下街の食堂にて昼餉をなさんとすれど、どの店も満員なり。そのうちの比較的混雑せざる中華料理屋に入り、八宝菜と麻婆豆腐の定食を食ふ。しかして、ホテルに戻り、小一時間ほど午睡をなす。







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