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東海道金谷ノ不二、諸人登山:北斎富嶽三十六景 |
(東海道金谷ノ不二) 金谷は、大井川の西側にある宿場で、対岸は島田である。この絵は、大井川を金谷側から見た眺めを描いている。怒涛逆巻く川の流れに逆らうように、大勢の人足たちが、旅人を渡している。一人一人背中に担いでいるものもあれば、十人以上で籠を載せた輦台を担いでいる者もいる。 まず奇異に感じるのは波の描き方だ。大井川といえども川であるから、いくら増水して、しかも風が強いと言っても、このような怒涛のような波が生じるとは思えない。実際こんな浪の中を、安全に渡ることなど不可能だろう。このような波は、浸かるものではなくて、乗るものと言うべきである。 左端とそのすぐ右側の輦台は、何故か三列の担ぎ手がいるが、そのうちの一列は何の役目も果たしていない。しかし、それはよく見て始めて気づくことなので、ちょっと見ただけではわからない。北斎にはこのように、人の眼を欺いて楽しんでいるようなところがある。 富士の手前と、そのすぐ右手に見える構築物は堤防と言われている。二つの堤防の合間から見える家並みは島田の宿であろう。 なお、左端の籠の側面にある「寿」の文字は、版元永寿堂西村を暗示している。これも広告のつもりなのだろう。 (諸人登山) 富嶽三十六景46枚のうち、富士のシルエットがあらわれないものが一枚だけある。それがこの「諸人登山」である。これは、富士登山をする富士講の人々が、頂上近くを歩いているところだと言われてきた。しかし、よく見ると、頂上付近にしてはおかしなところがある。たとえば、左手に描かれている樹木。これは丈の高い広葉樹であるが、こうした木は富士の山麓でこそみられるものの、頂上付近には決して見られない。 また、右上に洞窟のようなものが描かれているが、これも山頂付近にはないものだ。これは、富士吉田の登山口近くにある「船津御胎内」と呼ばれる洞窟なのではないか。 ということで、これは富士の頂上などではなく、富士塚を描いたものなのではないか、という解釈が成り立つ。そう解釈すると、上記の疑問は氷解するからである。 徳川時代には富士講と称する富士登山が非常に盛んになった。しかし、誰もが簡単に富士登山できるというものではなかったため、模擬の富士としての富士塚を作り、それに登ることで富士に登ったつもりになる行為がさかんになった。この絵は、その代替登山の様子を描いたものなのではないか。 |
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