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富士遠望図:富岡鉄斎の世界




富岡鉄斎は、六十歳過ぎまでなにかと多忙だった。各地の神社の神官を勤めたり、美術教育にあたったりで、画業に専念できなかった。もっとも鉄斎自身、己を職業的な画家とは思っておらず、絵を描くのはあくまでも文人の余技であった。それでも世間の評判は高かった。正式な展覧会に出展しないにかかわらず、かれの作品は珍重されたのである。

富岡が画家としての自覚を高めたのは、明治三十年代の半ば頃からのことで、すでに六十歳代の後半に入っていた。そして画境に著しい進展が見られるようになるのは、実に七十歳からである。それ以降かれは、八十九歳で死ぬまで絵を描き続けた。しかも年毎に画境が進展していくのである。

「富士遠望図」と「寒霞渓図」の六曲一双からなる作品は、鉄斎七十歳のときのもので、かれの画境の一つの到達点を示すものである。この作品を通じて鉄斎は、それまでの自己の作風を集大成するとともに、新しい境地を開拓したのであった。それは墨を基調にしながら、それに彩色を施し、独特な色彩感を発揮したものであった。

「富士遠望図」は、六曲一双の右隻。普通富士の絵は、三保の松原あたりから、身近に見上げるような視角から描かれるのだが、これは南伊豆の日金山からの遠望を描いたものである。富士の手前に伊豆半島を望み、その両側に海が広がる様子が見える。実際この通りに見えるのか、小生にはわからぬが、そう言われてみれば、そうかとも思える。

賛は鉄斎自作の詩。「夢に奇夷に閲して地仙を学ぶ、能く縮地を為して雲煙を踏む、腰間帯び得たり金壺の墨、瀉ぎて現わす芙蓉白玉の巓」。奇夷は宋の仙人陳博、芙蓉は富士をさす。

(1905年 紙本着色 155.5×361.0cm 京都国立近代美術館)





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