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平安時代の密教美術


日本美術史上平安時代は密教美術の時代といってもよい。平安遷都後間もない804(延暦23)年に遣唐使に加わった空海は、長安の青竜寺で僧恵果から大乗密教の極意を授けられ、翌々年の806(延暦25)年に帰国するや、京都神護寺で胎蔵・金剛両部の灌頂を最澄その他の僧に授けた。その後空海は、高野山の金剛峰寺や京都の教王護国寺を舞台にして真言密教の教えを伝播し、一方、最澄の方も比叡山の延暦寺を中心に、台密とよばれる密教を普及した。それにともなって、密教美術が全面的に花開いたわけである。

密教とは、顕教に対する対立概念で、顕教である大乗仏教が衆生の教化を目的にして方便を用いるのに対して、密教は僧の修行を主たる目的として、方便を排し、僧みずから直接仏と一体化することを目指している。その究極の理想は即身成仏である。

空海の時代に密教がさかんになった背景には、仏教が広く普及して、僧侶の集団が大規模に形成されていたということがある。彼らは、自分自身の修行を目的にして、修行に相応しい場所に集まり、密教の儀式に専念した。彼らが高野山や比叡山といった山中に向かったのは、そこが修行に相応しい場所と観念されたからである。

密教自体は、空海以前にもなかったわけではない。大乗仏教は、高度の精神性と抽象的な思考をともなうものであったが、そうした迂路を通らずに、仏教的な秘儀によって、大衆の信仰を集めようとしたものもあった。それは歴史上雑密と呼ばれる。雑密は日本の各地に浸透する過程で、土着の神道信仰と融合するようになり、そこから神仏習合と呼ばれる現象があらわれるようになる。

雑密は高度な体系性とは無縁であったが。空海は大乗仏教の普遍性や抽象性と密教的な秘儀とをうまく調和させ、大乗密教といわれるような体系的な教義を築き上げたのである。そのうえで、神仏習合の動きにも理論的な根拠を与え、民衆の神信仰を仏教体系の中に取り込んだ。それによって、前時代の素朴な神仏習合は、本地垂迹というたかちで体系化された。

つまり空海の教義体系は、一方では仏教的真理の追究を徹底して僧階級の希望に応えるとともに、大衆の信仰を仏教のもとに取り込んで組織化した。ここに至って仏教は、それまで支配階級の内部に留まっていた段階から、大衆化へ向けての歩みを始めることともなったわけである。そういう点で、空海が日本の仏教史上に果たした役割は巨大である。

密教美術は、寺院建築、仏像を始めとする彫刻、そして仏画の各方面で前時代とは異なる特徴を発揮した。その最大の特徴は、曼荼羅を意識していることである。曼荼羅とは、大日如来を中心にして、この世界が成り立っている様子を具象化したものである。それを図で表せば曼荼羅図となる。この曼荼羅図に展開されているイメージが基本になって、それを空間に配置したものが密教建築であり、曼荼羅図に描かれた様々な像が立体化されたものが貞観彫刻と呼ばれる彫刻群である。貞観彫刻では、観音像と天部の諸像がとりわけ重んじられた。



胎蔵界・金剛界両界曼荼羅
密教建築1:高野山金剛峰寺
密教建築2:教王護国寺(東寺)
密教建築3:室尾寺
密教建築4:醍醐寺
密教建築5:石山寺
貞観彫刻総論
貞観彫刻1:神護寺薬師如来像
貞観彫刻2:新薬師寺の薬師如来坐像
貞観彫刻3:東大寺弥勒仏像
貞観彫刻4:金剛峰寺大日如来像
貞観彫刻5:向源寺十一面観音像
貞観彫刻6:宝菩提院菩薩像
貞観彫刻7:神護寺五大虚空蔵菩薩像
貞観彫刻8:観心寺如意輪観音像
貞観彫刻9:法華寺十一面観音像
貞観彫刻10:法性寺千手観音像
貞観彫刻11:教王護国寺梵天・帝釈天像
貞観彫刻12:教王護国寺四天王像
貞観彫刻13:教王護国寺の五大明王像
貞観彫刻14:教王護国寺の僧形八幡三神像
青蓮院不動明王図(青不動)




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