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尾形光琳と琳派:鑑賞と解説


琳派と言えば、俵屋宗達に始まり尾形光琳を頂点にして酒井包一に至る日本画の流れを指して言うが、この言葉自体は昭和以降に使われるようになったもので、当人たちがその言葉を意識していたわけではない。しかし、それぞれ百年を隔てたこの三人の画風には共通するものがあり、また本人たちも先駆者の画風に深く学ぶところがあったわけで、琳派と言う名前こそ存在はしなかったが、一つの流派を形成していたといってもよかった。その最大公約数的な特徴は、様式的な美しさと装飾的なデザイン性にあったと言ってよい。

琳派の中で尾形光琳は中核的な位置を占める。彼は在野の画家として狩野派などとは距離を置き、もっぱら俵屋宗達の画風を取り入れたほかに、雪舟や雪村などの水墨画にも学び独自の画風を作り上げていった。その活躍時期は、法橋となった元禄十四年(1701)前後から正徳六年(1716)までの二十年足らずの期間である。しかしその短い期間にかかわらず、光琳は画風を進化させ、多彩な作品世界を造形した。その装飾的な画風は当時の庶民文化に受けいれられ、彼の死後二十年間ほどは光琳ブームと言うべきものが起ったほどだ。

尾形光琳は、京都の雁金屋という裕福な呉服商に生まれた。雁金屋は本阿弥光悦と姻戚関係にあり、また俵屋宗達とも接点があった。光琳が宗達の絵に親しんだのは、そうした事情が働いたためもあろう。その宗達の様式を身に着けることから、光琳の画業は始まったといってよい。

光琳が法橋になったのは元禄十四年四十四歳のときのことだ。いまに伝わる光琳の絵はほとんどそれ以後に描かれたものである。それらの絵には制作年代の明確なものが二点しかないので、画風などを手掛かりに推測するほかはない。

光琳の画風は、三つの時期に区分して語られるのが普通である。光琳は宝永元年(1704)から同六年(1709)にかけての約五年間江戸に在住しているが、その五年間(第二期と言う)を挟んで、それ以前の京都時代(第一期)、そしてそれ以降正徳六年(1716)五十九歳で死ぬまでの京都時代(第三期)である。

光琳はすでに第一期において、今日光琳風と呼ばれる画風をすでに確立していた。それは俵屋宗達に学んだ装飾的で様式的な画風である。その画風を武器にして江戸に出て来た光琳は、武家社会につてを求めて名声のあがることを期待したが、その期待は破られたようだ。江戸の武家社会では、光琳の価値をまともに認めてくれるものがいなかったからだ。そんなこともあって、江戸時代の作品にはあまり勢いがない。そこで批評家たちはこの時期の光琳を、晩年の飛躍に向かって準備していたというふうに語るのが普通である。

晩年の光琳は、京都の町衆や公家たちとの交際を通じて、江戸にいる時よりはのびのびとした気分になれたようだ。晩年の作品にはそうしたのびのびとした雰囲気が伺われる。

ここではそんな光琳の作品を中心に、琳派のなかからいくつかの名品を選んで鑑賞したい。



燕子花図屏風:尾形光琳
秋草図屏風:尾形光琳
草花図巻:尾形光琳
秋草文様小袖(冬木小袖):尾形光琳
千羽鶴図:尾形光琳
群鶴図屏風:尾形光琳
太公望図:尾形光琳
波濤図:尾形光琳
躑躅図:尾形光琳
孔雀立葵図屏風:尾形光琳
竹に虎図:尾形光琳
松島図屏風:尾形光琳
八橋図屏風:尾形光琳
竹梅図屏風:尾形光琳
紅白梅図屏風:尾形光琳
紅白梅図屏風:尾形光琳
四季草花図屏風:渡辺始興
蔦の細道図屏風:深江芦舟
夏秋草図屏風:酒井抱一
葛秋草図屏風:酒井抱一
朝顔図屏風:鈴木其一




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