日 本 の 美 術
HOMEブログ本館日本文化美術批評東京を描く水彩画 | プロフィール掲示板

雪村の世界:水墨画の鑑賞と解説


雪村は雪舟と並んで室町時代の日本の水墨画を代表する画家である。雪村に私淑してその名の一部を借用したほど尊敬していたが、雪舟と会ったという記録はない。雪村が生まれたのは雪舟より六十四年もあとのことであり、雪舟が死んだとき雪村はまだ二歳だったのである。にもかかわらず雪村は、雪舟の絵をこよなく愛し、自分も又その画風にあずかろうと願って雪村と名乗ったのであろう。

雪村は、数多くの絵が今日に伝わっており、生前すでに大家として認められていたが、その割に生前の彼の動向に関する記録が少ない。というより、同時代の記録は皆無であり、徳川時代になって、さまざまな資料をもとに、かれの生涯が再構成されたというのが実情である。今日雪村の生涯に関する資料として用いられるものとしては、狩野山雪の遺稿を基にしたという「本朝画伝」があげられるが、これにしても情報量は少ない。その少ない情報のなかから、雪村の生涯と画業をまとめると、次のようになる。

雪村は、常陸の武将佐竹氏の嫡男として生まれた。しかし父が庶子に家督を継がせたので、雪村は剃髪して僧になった。雪村の画家としてのスタートは、画僧であったわけである。雪村は生涯を僧として過ごしたようである。

雪村が剃髪したのは、常陸の臨済宗の寺院正宗寺だったというのが有力な説である。正宗寺は、佐竹氏の菩提寺だったといわれる。この寺で得度する際、雪村周継と名乗った。雪村は雪舟にちなみ、周継は師から与えられた法諱である。臨済宗夢窓派の画僧は、周の文字を諱とする例があったようだ。

正宗寺は、鎌倉黄梅院の塔頭であったことから、雪舟は鎌倉に度々遊んだようだ。また黄梅院が足利学校と縁が深かったことから、足利学校に遊学したこともあったようだ。雪村が誰から絵を学んだかは明らかではない。おそらく独学だろうと思われる。雪舟を始め、先達の絵を見て、自分なりに学んだのであろう。

雪村の若い頃の絵は、あまり伝わっていない。若い頃の雪村は、常陸、鎌倉、足利、会津の黒川などで暮らし、黒川では、黒川城主芦名盛氏に「画軸巻舒法」一巻を授けている。また、この頃の作品としては、「辛螺に蘭図」などがある。

天文十五年(1546)には、鹿島神宮に「神馬図」を奉納しているが、これは北条氏の武運を祈ったものと言われる。当時雪村は、箱根の早雲寺に滞在していたらしい。この年から、天文十九年(1550)頃にかけて、雪村の最初の円熟期があって、「風濤図」や「夏冬山水図」などの傑作が描かれた。その頃の雪村の画風には、中国の浙派の影響が見られる。天文十九年には、早雲寺の住持の肖像画「以天宗清像」を描いている。

雪村はまた、溌墨法を用いて描いた。溌墨法は中国の玉澗が得意としたもので、日本では雪舟がこれを取り入れた草体の画法である。雪村による溌墨法の代表作としては、「瀟湘八景図」とか「山水図」があげられる。これと並行する形で行体図も描いており、「琴高群仙図」などの躍動感にあふれた作品がある。

雪村は、永禄年間(1558-1569)には小田原に居住し、北条氏の庇護を受けた。雪村の代表作「呂洞賓図」は、北条氏政の家督相続を祝って献上したものとされる。

六十歳代の後半には、足利と佐野に滞在し、七十歳以降は奥州の三春に隠棲した。「竹林七賢図」は七十一歳の時の作品であり、雪村が最晩年迄旺盛な創作力を発揮していたことをうかがわせる。ここではそんな雪村の代表作を取り上げ、水墨画の画像を鑑賞しながら適宜、解説・批評を加えたい。なお、上の肖像画は雪村自画像の一部である。


芙蓉竹の兎図:雪村の世界

辛螺に蘭図:雪村の世界


楊柳水郭図:雪村の世界

百馬図帖:雪村の世界

風濤図:雪村の世界

夏冬山水図(夏):雪村の世界

夏冬山水図(冬):雪村の世界

松に鷹図:雪村の世界

叭叭鳥図:雪村の世界

琴高群仙図:雪村の世界

列子図:雪村の世界

山水図:雪村の世界

波岸図:雪村の世界

蕪図:雪村の世界

呂洞賓図:雪村の世界

四季山水図屏風:雪村の世界

花鳥図屏風:雪村の世界

竹林七賢図屏風:雪村の世界

竹林に猿蟹図:雪村の世界




HOME








作者:壺齋散人(引地博信) All Rights Reserved (C) 2013-2019
このサイトは、作者のブログ「壺齋閑話」の一部を編集したものである